ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

ネストリウス派とそれ以外のキリスト教について知りたい~おもに東方のキリスト教について~

 これまで、約20回ほどに渡って、ネストリウス派の活動の流れを見てきた。ネストリウス派が誕生し衰退するまでの時期は、5世紀から14世紀まで、その活動範囲は、メソポタミアから、インド、中央アジア、中国、モンゴルと幅広い。こうしたネストリウス派の活動のすべてをおさえるのは困難だが、ネストリウス派キリスト教の一派であるので、このブログでは、基本的に、教会史家である森安達也氏の「ネストリオス派教会」『キリスト教史Ⅲ 東方キリスト教』(山川出版社、1978年)によって、ネストリウス派の動きを追いつつ、その動きの背景を知るために各時代・各地域の専門家の著作を参考にした。これまでネストリウス派の動きを追うことに専念したため、キリスト教の他の教派について、あまり触れられずにいたが、ネストリウス派の跡を追っていくうちに、ネストリウス派以外の他のキリスト教の存在も気になってきた。たとえば、ネストリウス派は、典礼でシリア語を使っていたらしいと何度か書いてきたけれども、同じくシリア系のヤコブ派(シリア正教会)とネストリウス派とどう違うのだろう?とか、13世紀にモンゴルを訪れたローマ教会の宣教師の旅行記に出てくるアルメニア教会というのは、どういう教派なのか?とか、『東方見聞録』に出てくるエチオピアキリスト教って何?とか。もっというと、カルロス・ゴーンは、マロン派のキリスト教徒らしいけれど、マロン派って何?とか、エジプトのコプト教会って何?とか。そこで今回は、このブログを書く際に道しるべになった森安達也氏の著作キリスト教史Ⅲ 東方キリスト教に合わせて、同じく森安達也氏による『東方キリスト教の世界』(いずれも山川出版社、1978年、1991年。少し古い著作であるが、日本語の類書が他になかなか見当たらない)を手に取り、この辺りの疑問を調べてみた。

 

 ざっくりいうと、キリスト教においては、キリストは「人であり神である」が「人であり神である」とはどういうことかという解釈の仕方を巡って、たびたび、神学論争となったらしい。アンティオキアの神学を学んだネストリウスは、人性と神性をはっきり区別して、マリアをテオトコス(神の母)とすることを否定し、クリストトコス(キリストの母)と呼ぶべきだと主張したが、東方ではすでに聖母崇拝がすでに定着していたのと、当時の教会政治も絡んで、431年のエフェソス公会議で異端とされた。451年には、カルケドン公会議で、単性論が異端とされた。単性論も色々あるようだが、簡単にいうと、キリストの人性と神性の区別を少々あいまいにして神性を重視したものを単性論というらしい。ちなみに、カルケドンでは、キリストの人性と神性は「混ざらず、変わらず、分れず、離れない」と規定され、これを受け入れる教会が正統派(カルケドン派)とされた。ヤコブ派(シリア正教会)は単性派のリーダーのようなもので、エジプトのコプト教会も、エチオピアの教会も単性論であった。アルメニアは、301年頃に世界で初めてキリスト教を国教にした国であるが、アルメニアの教会も6世紀には単性論派となった。しかしアルメニア教会は、ヤコブ派とは、ほとんど交流がなかったようである。レバノンのマロン派は、単性論とカルケドン派双方に理解を得られるようにしようとした単意論の教会である。ネストリウス派はペルシアから中央アジア、中国方面にひろがったり、アラビア経由でインドに入ったりしたが、単性論は、基本的に域外には出なかった。ただ、ヤコブ派は例外で、ネストリウス派と同じくペルシアやアラビアにひろがったが、ネストリウス派には対抗できなかった。ネストリウス派と単性論派を合わせて東方諸教会ともいうが、東方諸教会が一枚岩だったわけではなく、各教派は、カルケドン派との関係性や、自分たちの教派の背後にある国や政権との関係性との合間で、それぞれの身の処し方をした。

 

 ところで、キリスト教の古代教会では、ペンタルキア(五総主教制)をとっており、アンティオキア、アレクサンドリアコンスタンチノープル、ローマ、エルサレムの各主教を総主教(ローマの総主教はのちに教皇と呼ばれるようになる)とし、各総主教がキリスト教世界の指導的役割を担っていたのだが、カルケドン公会議以降、アンティオキアのあるシリア(現在のトルコのアンタキア)や、アレクサンドリアのあるエジプトでは都市部を除いて、カルケドン派より単性論派の方が優勢になった上に、シリアやエジプト、ネストリウス派ヤコブ派が伸びたペルシアが、7世紀にイスラム政権下に吸収されていった。結果、コンスタンチノープルとローマのみがカルケドン派として残り、前者は東方正教会あるいはビザンティン教会と、後者はカトリックと呼ばれるようになった。カトリックは、カトリックから派生したプロテスタントと合わせて、西方教会とも呼ばれる。 

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キリスト教の五総主教座

 さて、十字軍の時代になると、ローマ教会が東方の教会との合同を模索し始めるが、「合同」とは、教皇権の主張を高く掲げたローマ教皇が、東方の様々な教会を自己の権威のもとに従わせようとした企てであった。西方の人々は、東方のキリスト教はどれも異端で似たようなものという扱いをしたから、数々の神学論争の中で分裂を繰り返した長い歴史を持つ東方正教会(ビザンティン教会)の人たちにとっては屈辱であった。しかし政治的な必要性から東方正教会(ビザンティン教会)は「合同」の道に進もうとしたが、一般信徒だけでなく修道士や在俗司祭の圧倒的多数がラテン人との妥協に反対した。他の東方諸教会の各教派の中でも、合同派と、反合同派とに分裂し、元の時代のネストリウス派でも、合同を進めたそうなカトリコス(ネストリウス派のトップ)と、元で宣教活動をするローマ教会の宣教師を妨害するネストリウス派がいたことは以前書いた。↓↓

ヤコブ派に至っては、合同派と分裂し、十字軍よりイスラム教徒による支配を選ぶ人たちが少なくなかった。一方、アルメニア教会は、反ビザンチン、反トルコの立場から、十字軍と友好関係を結んだ。単意論のレバノンのマロン派は、積極的に十字軍に協力し、徐々にラテン化をすすめていったが、それゆえ、のちにマムルーク朝の迫害を招いたり、オスマン朝時代にはレバノンの山地でドルーズ派と抗争を続けることになった。エジプトの単性論派のコプト教会は、東方正教会への不信に固まっており、十字軍に対する幻想もなく、協力もしなかった。  

 

 こうして見てくると、東方正教会(ビザンティン教会)は、心的にも距離的にも、ネストリウス派を含む東方諸教会と、西方のローマ教会(カトリック)との中間的存在だったといえる。東方諸教会の方は、イスラム政権下で迫害されたり、それなりに繁栄したりしたが、十字軍以降、ローマ教会に近づくもの(合同派)と、ローマ教会と距離を置くものに分裂し、ネストリウス派ヤコブ派はこれを機に衰退していったという。

 

 

☆ネストリウスの追放とネストリウス派教会の成立の詳細については、下記の記事をご覧ください。↓↓