ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

大秦景教流行中国碑発見と日本②~ロドリゲス通事と原マルチノ

 

 前回の記事で、景教碑発見の報が、同時代に日本に入った可能性について考察し、もしいくらかのタイムラグを経て入ったとすれば、そのルートの一つとして、イエズス会士のロドリゲス通事経由が、あり得るかもしれないと書いた。↓↓

 日本で、秀吉や家康に通訳として関わったり、その語学力を生かして『日本大文典』を編集したりしたロドリゲス通事が、様々に絡み合った政治的状況に巻き込まれて、日本からマカオに追放されたあとも、日本に戻ろうと試みたが叶わず、結局マカオで亡くなったが、このロドリゲス通事がマカオからたびたび中国(明)に渡り、景教碑を見に現地に行ったりしたことは、前回書いた。ロドリゲス通事は、マカオにいる間、随時日本教会史』を書きすすめていて、これは、結局未完で終わってしまったが、残されたこの『日本教会史』には、景教碑のことが少し出てくる。ところで、同じころ、天正遣欧使節団のメンバーの一人だった日本人の原マルチノマカオに追放されていたが、この原マルチノは、マカオでロドリゲス通事の執筆を手伝っており、この『日本教会史』にも関わっていた。ロドリゲス通事自筆の『日本教会史』の草稿には、マルチノによる訂正や書き込みが残っているという。『日本教会史』の景教碑の箇所が、何年に書かれたのかはわからないが、原マルチノは1629年に、ロドリゲス通事は1633年にマカオで亡くなっていて、ロドリゲス通事が1630~1633年に間に、景教碑のことを書いていたなら、マルチノは、その箇所を読んでいなかったことになるが、この時期、ロドリゲス通事は明で北京のキリスト教徒の保護活動その他で大変な時期だったから、『日本教会史』の執筆どころではなかったかもしれない。となると、マルチノの生前に、ロドリゲス通事が景教碑についてすでに書いていた可能性がある。たとえ書いていなかったとしても、ロドリゲス通事が景教碑を見たのが1625~1626年の頃のようだから、マルチノが、生前に景教碑発見の報をロドリゲス通事から聞かされていてもおかしくない気がする。原マルチノ経由で、日本に景教碑発見の報が知らされたことはあっただろうか??

 

 

(以上、①『大航海時代叢書 第1期9 ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 上』岩波書店、1967年、②『大航海時代叢書 第1期10 ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 下』岩波書店、1970年、③『クアトロ・ラガツッィ 天正少年使節と世界帝国(下)』若桑みどり著、集英社文庫、2008年④『旅する長崎学2 キリシタン文化Ⅱ 長崎発ローマ行き、天正の旅』長崎文献社、2017年参照)