ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

2~8世紀半ばのソグド人、ソグディアナとキリスト教

 
 前回、5~8世紀の頃のネストリウス派は、ソグディアナとその周辺に広がっていたらしいと書いた。ソグディアナとは、ソグド人の故郷である。今日は、少し遠回りになるが、ソグディアナやソグド人について学んでいきたい。

 

 

 ソグド人は、人種的にはコーカソイドであり、使った言語は、今では滅びたソグド語であった。ソグド語は、印欧語族イラン語派に属する中世イラン語の東方言のひとつであり、ソグド文字は、アラム文字が草書化するうちに生まれた。

 

 ソグド人の故郷はソグディアナ(アム河中流域とシル河に挟まれた両河地域、現在のウズベキスタン。東端の一部のみタジキスタン領)であったが、ソグディアナが独立王朝を形成することはなかった。ソグディアナの西にはアム河下流域のホラズムが、南にはアム河中流域の重要拠点バクトリアが、東にはシル河上流域で名馬の産地として名高いフェルガナがあり、ソグディアナの第一の首邑はサマルカンド(康国)だった。ソグディアナは定住民世界の北縁に位置し、ステップ地域の遊牧民と常に接触していた。ソグディアナは、前6~前4世紀にはペルシア人によるアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の、前3世紀~前2世紀はギリシア人によるグレコバクトリア王国の、前2~後3世紀には大月氏によるクシャーナ王朝の支配を受けていたが、クシャーナ朝の版図にソグディアナが含まれるかどうかは意見がわかれているようだ。いずれにせよ、ソグディアナは、バクトリアを治める政治勢力に従属する傾向があった。4世紀は、フンあるいは匈奴の移動に伴い、ユーラシアも民族移動の時代となり、この時代についてはよくわかっていないが、ソグディアナより都会で壊滅的な状況となったバクトリアと違って、ソグディアナは5世紀には民族移動の興廃から立ち直ったらしい。5世紀のバクトリア語の印章から、4世紀後半あるいは5世紀前半にバクトリアで勃興したらしいキダーラ(フン族の一派)がこの辺りを支配した時期があったと知られる。(キダーラの公用語バクトリア語だった。)その後、5世紀後半には、やはりバクトリアエフタルが勃興し、6世紀初めにはソグディアナもエフタルの支配を受けていた。その後、6世紀半ばには、西突厥(チュルク系遊牧民)とサーサーン朝が組んでエフタルを滅ぼし、西突厥(チュルク系遊牧民)がこの辺りを支配するようになり、エフタルは一地方領主に甘んずるようになる。657年に西突厥が唐によって滅ぼされると、ソグディアもの羈縻支配(直接統治するのではなく、在地の支配者に唐の称号を与えて唐の小主権を認めさせる支配方法)を受けるようになる。

 

 このようなソグディアナの地を本国とするソグド人は、2世紀に、クシャン朝下にあったインド商人やバクトリア商人に付随して、遠距離貿易に参入し、東西交易やインド亜大陸貿易に携わった。4世紀のフン族の移動による中国の混乱期に、中国本土の外国人は四散し、甘粛の共同体だけが存続し、4世紀末に連絡が回復したときには、ソグド人が最も重要な商人になったようである。サーサーン朝の攻撃により、クシャーン朝が中央アジアから姿を消した数十年後に刻まれるようになったインダス川上流のソグド語銘文によれば、5世紀に、侵略者であったフン族(遊牧民)とソグド人の融合が起きたが、それは1世代以上は続かなかったようである。5世紀の頃には、チュルク系遊牧民族と手を結び、東は華北、のちに西はビザンティンまで拡散するようになった。5~6世紀には、ソグド人の北方への移住がはじまり、コインの遺物から見て、6世紀にはチャーチ(現在のウズベキスタンタシケント)にソグド文化が広まっていたのがわかる。またチャーチの北東のセミレチエ(現在のカザフスタンキルギスにまたがる地域)は、5~6世紀にソグド人によって都市化されて、チャーチ以上にソグドの影響が深く浸透していた。(このセミレチエのソグド人集落の起源は商人ではなく貴族らしい。貴族と商人の差はわずかのようだが、商人と貴族は同化しなかった。貴族と商人の関係性はよくわかっていない。)630年頃、イッシク・クル湖(現在のキルギスにある)からサマルカンドまでの地域を通過した玄奘にとっては、チャーチもセミレチエもソグディアナの一部に見えていたらしい。6世紀半ばに西突厥がエフタルを破り、ソグディアナを征服すると、チュルク人男性とソグド人貴族の女性が婚姻関係を結ぶようになり、ソグド人とチュルク人の真の融合がはじまった。モンゴリアを中心とする突厥の中には、胡部と呼ばれるソグド人部隊があり、東突厥が630年にいったん滅びると、これらのソグド人はオルドス付近に住むことになった。こうしたソグド人とその子孫たちは、チュルク・ソグド人と呼ばれる。こういったソグド空間の拡大を背景に、6世紀初めから8世紀半ばはソグド人の交易の全盛期となり、ソグド人はセミレチエと甘粛の間を絶えず往来した。中国の入り口であった河西地方は、中国の中ではソグド人が特に多くおり、6~7世紀のソグド人の墓誌によると、ソグド人たちはいったんこの河西地方に入って定住し、何代かしてから中国内地に遷ったようだ。また、この河西地方はモンゴル高原に至る道の出発点でもあった。

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(6~8世紀 ソグド人の拡大)

   ソグド人は、商人としてばかりでなく、中国と遊牧民との間の通訳や交渉人として立ち振るまったり、北斉、隋、唐の中国で、大臣や国子祭酒、宰相にまで出世するものも出た。薩宝(薩保、薩甫)と呼ばれたキャラバン(サンクスリット語のsarthaからの借用語)のリーダーは、ソグド人集団の代表の立場であった。この集団は、交易だけでなく軍団も擁しており、これは、キャラバンの安全確保のための武力だったのかもしれない。このような軍団は、唐になって府兵制が敷かれる時の母体になったという指摘もある。中国で発見されたソグド人の墓のレリーフには、突厥やエフタルといった遊牧民がキャラバンを護衛しているように解釈できるものがあるようだ。何にせよ、ソグド人には商人としてだけでなく、中国においては、武人としての一面もあった。また西域趣味が高まった唐の時代には、西域の歌舞や音楽などの分野でも重宝された。

 

 6世紀にサーサーン朝が最盛期を迎えると、突厥を背景に、チュルク・ソグド人の商人が、サーサーン朝との絹の交易を図るが、サーサーン朝に拒絶されると、交易先をローマ(ビザンツ)に向ける。遊牧民とローマ(ビザンツ)との関係は、このときにはじまったのではなく、ぺーローズと戦っていたエフタルの時代からあった。中央アジアで、ビザンツ式のコインなどが見つかっているのには、こうした背景もありそうだ。クリミア半島は、チュルク・ソグド人社会の西側の入口だったと考えられている。

 

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(最盛期のソグド人交易の範囲)

 前回書いた5~8世紀のネストリウス派やシリア語を使うその他のキリスト教(ヤコブ派か)、さらにビザンツ系のキリスト教中央アジアでの広がりを、こうした背景のもと、見直してみると、中央アジアネストリウス派などのキリスト教が広がった時期は、ソグド人交易の全盛期に重なり、そうしたキリスト教が広がった地域はソグディアナやソグド人の移住先と重なっている。また社会の上層部でソグド人とチュルク人の融合が起こった時期にも重なっていることがわかる。

 

 とはいえ、ソグド人の生まれながらの宗教はゾロアスター教(ソグド人のゾロアスター教は、国教化したペルシアのそれとは違って、ステップ地方の遊牧民ヒンドゥー教の影響も受けた独自のものだった。)だったし、チュルク人の宗教はシャーマニズムだったようだから、この時期のソグド人やチュルク人、チュルク・ソグド人の主要な宗教がキリスト教だったとは言えない。この時代の突厥の情報に詳しかった隋の武将・裴矩が、突厥人自身は純朴だが、その背後に狡猾なソグド人がいて、彼らを操っていると言っていたぐらいだから、キリスト教はチュルク人にとっては、シャーマニズムの一種であり、ソグド人にとっては、自分たちの後ろ盾となったチュルク人(キリスト教徒であった一部のチュルク人)との提携の印、あるいはサーサーン朝やローマ(ビザンツ)との交易のための一つの方策であったかもしれない。

 

 ここでソグド人と他の宗教との関係も簡単に見ておこう。ソグディアナ本土で仏教が広まったかは議論があるようだが、中国文化圏や仏教圏に移住したソグド人の中には、仏教徒が少なくなかったようで、彼らが仏教徒に改宗したのは、一部の例外を除けば、その多くが7世紀に入ってから(7世紀後半?)だったらしい。マニ教について言えば、7世紀末には東方マニ教公用語がソグド語になったらしい。ウイグル(元来はモンゴル高原にいたモンゴロイドで、トルコ系の言語を話した騎馬遊牧民)にマニ教を持ち込んだのはソグド人で、8世紀後半以降、このマニ教ウイグルで国教化した。ソグド人の生まれながらの宗教はゾロアスター教といわれるが、本国あるいは移住先の政治・社会状況に合わせて、宗教の面では柔軟な姿勢を示したようにも感じられる。

 

 ちなみに、日本にもソグド人は来ていた。754年に来日した鑑真の随員の一人だった安如宝がそうである。来日当初の安如宝は僧ではなかったようだが、のちに僧になり、下野国薬師寺のトップとして派遣された初代の僧となったり、唐招提寺の第4世(2世という説もあるらしい)僧都(唐招提寺のトップ)となり、唐招提寺の建物や仏像を整備したりして、815年に亡くなったという。

 

(2022年1月12日追記)

 

 

(以上、☆『ソグド商人の歴史』E・ドゥ・ラ・ヴェシエール著、影山悦子訳、岩波書店、2019年、☆『シルクロード唐帝国』森安孝夫著、講談社学術文庫、2016年、☆『ソグド人の美術と芸術』吉田豊、曽布川寛編、臨川書店、2011年、☆『アーリア人』p、162~181、青木健著、講談社メチエ、2009年、☆『考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化』E・ルトヴェラゼ著、加藤九訳、平凡社、2011年、p、170~174、☆『シルクロードの宗教』R.C.フォルツ著、常塚聴訳、教文館、2003年、p、114~132、☆『ゆーろ・ならじあ・きゅー』奈良県立大学、2017年、vol.9、p、20~31参照)