ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

西方にも拡がったネストリウス派と、シリア語以外にネストリウス派と関係する言語について

 

 これまで、シリア方面からペルシアに入ったネストリウス派が、インド方面や中央アジア、中国といった東方に拡がる様子を見てきた。それで、ネストリウス派といえば、東方と縁が強いように思ってしまうが、ネストリウス派は、じつは西方にも里帰りしつつ拡がっていたという。今回は、まずその辺りをみていこう。

 

  7世紀になると、ネストリウス派は発祥の地とも言うべき旧ビザンティン帝国領のシリアに進出した。まず、ダマスクスに府主教座が置かれたが、9世紀になると、その府主教座の管轄下に、アレッポエルサレム、マンベイ(ヒエラポリス)、モプスエスティア、タルソス、メリテネ(マラティア)といった、現在のシリアとトルコ(エルサレムを除く)に存在する町に主教が置かれたらしい。8世紀には、エジプトにもネストリウス派の居住地があり、主教もいたが、その地位は不安定だったという。エジプトでネストリウス派の主教の地位が不安定だったのは、そもそもネストリウス派が、エジプトのアレクサンドリア学派との政治争いに敗れて生まれた一派だったからかもしれないが、わからない。

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(ダマスクスの府主教座とその管轄下の主教)

  何にせよ、ネストリウス派は東方に広がっただけでなく、このように、西方にも拡がった。西方への拡大のはじまりは、アッバース朝より前のイスラーム征服時代かウマイヤ朝の頃で、アッバース朝の最盛期から衰退期への移行期の頃に、ダマスクス府主教座の管轄下にネストリウス派の拠点が複数、置かれるようになったようである。

 

 ところで、ネストリウス派といえばシリア語と関係が深いことは、これまでも何度か書いてきた。しかし、実はネストリウス派の跡は、シリア語以外のものも見られる。これは、ネストリウス派が、典礼においては、どこでもシリア語を使ったが、典礼以外では、広がった先や時代によって、さまざまな言語を併用したかららしい。たとえば、はじめはペルシアを本拠としたため、中期西イラン方言のパフラヴィ語を、中央アジアではソグド語やチュルク語(古ウイグル語)を、中国では漢字を併用した。イスラームの時代になると、アラビア語の勢力が教会にもおよび、905年にはダマスクス府主教のエリアスが教会法規をアラビア語でまとめたという。

 

 

(以上、☆『キリスト教史Ⅲ』森安達也著、山川出版社、1978年、p、243~245、☆高橋英海「ユーラシアの知の伝達におけるシリア語の役割」『知の継承と展開』明治書院、H26年、p、38、☆『ソグド人の美術と芸術』吉田豊、曽布川寛編、臨川書店、2011年、p、42、☆『シルクロードの宗教』R.C.フォルツ著、常塚聴訳、教文館、2003年、p、141~159、☆『シルクロード全史(上)』ピーター・フランコパン著、須川綾子訳、河出書房新社、2020年、p、100~134)

 

 

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