ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

5~8世紀 中央アジアでのネストリウス派

 

 前々回、サーサーン朝のぺーローズのとき、ネストリウス派がペルシアで公認されたと書いた。今回は、その後のネストリウス派のひろがりの第一歩を見ていきたい。

 

 ネストリウス派が東方に広がった正式な第一歩は、ぺーローズの息子のカワード1世のときであった。5世紀後半から6世紀の半ばのころ、一時期トルキスタンに亡命したカワード1世の随員だったネストリウス派の聖職者が、エフタルや中央アジアのチュルク系の遊牧民族に文字を教え、布教したという。エフタルは、イラン系かチュルク系かもはっきりせずよくわからないが、わずかに残る言語的な証拠から、そのどちらでもないようでもある。このエフタルは、5世紀後半~6世紀まで中央アジアを支配する一国家を建てた強力な部隊であった。カワード1世の父ぺーローズはエフタルの力を借りたり、エフタルと戦ったりして、最終的にはエフタルとの戦いで敗死した。エフタルは、中国の北朝とも南朝とも通じていた。エフタルの宗教は、漢文資料によれば「事天神火神」、またミヒラクラ王という王の名前から、ミスラ崇拝も感じられるが、謎の魚の神ズーンも信仰していたらしい。クシャーン朝と違って、積極的に仏教を保護することはなかった。キリスト教に改宗したエフタルは一部と思われる。アルメニアの歴史家エギシェによれば、エフタルのハンは、アルメニアと同盟条約を結んだとき、同盟の確固さを守るために、キリスト教徒としての誓いをしたという。

 

 599年、サーサーン朝の将軍チョービーンの同盟軍として戦ったチュルク人の額には十字架のしるしがつけられており、そのチュルク人によれば、キリスト教徒の助言によって、さまざまな不幸をさけるために、このしるしをつけたという。ネストリウス派教会のシリア語の資料によれば、644年、メルヴの府主教エリーアスが十字架の印によって雷雨を鎮めたことで、チュルク人の王に感銘を与え、これによって王がキリスト教徒になり、家臣も従ったという。どうやら、初期のネストリウス派の聖職者たちは、チュルク人から一種のシャーマンとして受け止められていたらしい。

 

 こうした動きもあって、ネストリウス派は、6世紀までにはメルヴに、7世紀までにはサマルカンドに主教座を置き、チベットでも布教を行ったらしい。8世紀は、ネストリウス派の布教活動が頂点に達した時期で、サマルカンドトルキスタン府主教座に昇格し、ブハラとタシケントにも主教座が置かれ、チベットにも主教が派遣された。また、中国の北方から南シベリアに及ぶ地域に住んでいたトルコ・タタール系諸民族~ケレイト人、ウイグル人、ナイマン人、メルキト人~に対してもネストリス派の布教が及んだ。6世紀後半にはヘラート(現在のアフガニスタン)、インドと中国に、7世紀にはカシュガルとネヴァカド(現在のキルギス)にも大主教座が置かれたらしいが、ネストリウス派のことなのか、よくわからない。

 

 

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5~8世紀 ネストリウス派の主教座が置かれた場所

 

 この時期の中央アジアには、ネストリウス派以外のキリスト教徒(ヤコブ派やビザンティン教会)もおり、キリスト教関係の物的証拠として、十字架の入ったキリスト教関係と思われるコインや、キリスト教の教会や僧院跡などが発見されている。詳しくは、E・ルトヴェラゼの『考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化』(平凡社)のp、163~170を参照されたい。

 

 この時期の中央アジアにおけるネストリウス派の物的証拠としてはコインや十字架がある。7世紀にサマルカンドの北の方にあったウストルシャナのアフシン(支配者の意、キダーラ時代に導入された語のようである)であるロハンチによって発行された青銅のコインには、ネストリウス派タイプの十字架の図文がある。またサマルカンドのアフラシャブで発見された同じく7世紀のコインの表面には、防寒用頭巾のような被り物を被ったモンゴロイド的な相貌の支配者の胸像とその頭の右側に大きな十字架、左側にネストリウス派タイプの小十字架が描かれている。アフラシャブでは、ネストリウス派タイプの青銅十字架(8世紀?)も発見されている。年代はよくわからないが、やはりサマルカンドに近いペンジケント(現在のタジキスタン)で発見されたコインの裏面には、ネストリウス派タイプの十字架とソグド支配者の王朝的な印が描かれており、ワラフシャ(現在のウズベキスタンのブハラの北西40km)で発見された約10個のコインの表面には猛獣または鹿の像、裏面にはネストリウス派タイプの十字架がしるされている。ジャムカド、ネヴァカド(現在のキルギス)の墓地や、ペンジケント地方のダシュティウルダコンの墓地から、胸に下げる青銅のネストリウス派タイプの青銅十字架も見つかっている。

 

教会跡についていえば、サマルカンドの南、ウルグート付近にはネストリウス派の教会跡があり、ウルグート南西のグルベル渓谷では、数十個のシリア語の引っかき文字と十字架の図文が見つかっている。10世紀のアラブの地理学者イブン・ハウカルは、サマルカンド南のシャウダル山の山上にキリスト教会と僧房があり、そこからソグディアナの大部分を見渡すことができ、修道院が不動産を持っていたことを記している。中央アジア史・トルキスタン諸民族史・イスラーム史研究者のバルトリドは、このハウカルが記述したキリスト教徒の集落が、ウルグート郡にあったとしている。

 

シリア文字の墓碑銘のあるキリスト教徒の丸い小石の墓石も見つかっており、その最古のものは、クラスナヤレチカ(現在のキルギス)の789年のものである。その他にも古テルメズ、タラス、アクベシム、ネヴァカト、ジャムカトなどにキリスト教徒の墓があったが、アクベシム(現在のキルギス)の墓地では、死者をいれたフーム(一種の甕棺)の表面にネストリウス派タイプの十字架が引っかきで印されていた。

 

以上、まとめると5~8世紀のネストリウス派は、中央アジアサマルカンド周辺、言い方をかえるとソグディアナとその周辺に広がっていったと言えそうである。コインなどの遺物から見て、(チュルク系の)遊牧民に広がっていたようだ。ソグド関係にもいくらか広がっていたかもしれない。(チュルク系の)遊牧民は、キリスト教をシャーマンの一種とみなしていた可能性も高そうだ。

 

 

(以上、☆『キリスト教史Ⅲ 東方キリスト教森安達也著、山川出版社、1978年、p、235~240、☆『考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化』E・ルトヴェラゼ著、加藤九訳、平凡社、2011年、p、163~170、☆『シルクロードの宗教』R.C.フォルツ著、常塚聴訳、教文館、2003年、p、108~109、☆『トルキスタン文化史』1、バルトリド著、小松久男監訳、東洋文庫、2011年、p、120~125、☆『アーリア人』青木健著、講談社メチエ、2009年、p、80~89、p、155、☆『ソグド人の美術と芸術』吉田豊、曽布川寛編、臨川書店、2011年、p、22~27、☆『ソグド商人の歴史』E・ドゥ・ラ・ヴェシエール著、影山悦子訳、岩波書店、2019年参照)