ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

チンギス・カンとネストリウス派

 

 以前、1007年にケレイト族がネストリウス派に改宗し、ケレイト族の首府カラコルムネストリウス派の教会が建てられたことや、1093年には契丹ネストリウス派の主教が派遣されており、そのころには契丹にもネストリウス派がいたようだということを書いた。↓

その後、13世紀の初頭までには、ナイマン族もネストリウス派に改宗したという。また時代は定かではないが、オングト族もネストリウス派に改宗したらしい。ところで、ネストリウス派に改宗したケレイト族とオングト族は、チンギス・カンと関係が小さくなかった。今回は、その辺りを少し詳しく見ていこう。

 

 チンギス・カンの生まれる12世紀半ばころのモンゴリア高原は、多くのモンゴル系、チュルク系の遊牧民族が割拠していた。すなはち、タタール族、メルキト族、ケレイト族、オングト族、ナイマン族(それぞれの部族の拠点については下の地図を参照)、そしてアルグン河の二支流オノン、ケルレン両河流域のモンゴル族である。テムジン(のちのチンギス・カン)は、そうした時代にモンゴル族の一有力部族の族長イェスゲイ・バートゥルの息子として生まれた。この時代の有力部族は、ケレイト族、タタール族、ナイマン族であったが、テムジンはケレイト族の族長トオリル・カンの庇護を受けて、父の死後分散した部衆を集め、メルキト族を破り、一部族連合の長に推戴された(1189年頃?)。次に、ケレイト族のトオリル・カンと金軍と協力して、タタール族を破った(1194あるいは1196年)。(この頃には、遼や北宋女真族の金に滅ぼされており、西夏も金に服属していた。)この際、金からトオリル・カンは「王」の称号を受けたが、テムジンは「百戸長」といった低い称号を与えられたに過ぎなかった。しかし、1202年に、テムジンが再度のタタール族討伐で、これを完全に滅ぼすと、テムジンとケレイト族のトオリル・カン(ワン・カン、ワンは「王」の意)は衝突することになり、テムジンは苦戦の末、トオリル・カン(ワン・カン)を破り、東モンゴリア高原の派遣は、テムジンの手に渡った。

 

 1204年には、テムジンはオングト族と組んで、ナイマン族を撃破し、族長のタヤン・カンを捕らえ、つぎはタヤン・カンの息子クチュルクとメルキト族を討ち、東トルキスタンを手中に入れ、ついにモンゴリア高原を統一した。(ナイマン族がネストリウス派に改宗したのは、この頃だろうか???)

 

 1206年、テムジンは新しいモンゴル国家の君長に推戴され、チンギス・カンという称号を与えられた。チンギス・カンの誕生である。チンギスとはモンゴル国が信じる原始宗教のシャーマン教における光の精霊に由来し、カンというのは5世紀以来、モンゴルの遊牧国家の君長が用いてきた称号であった。

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13世紀の東アジア諸国と北方諸民族 (wikipediaからCC0画像借用、一部加工)

 以後、チンギス・カンは、亡くなる1227年まで各方面に征服戦争を進めた。まず、東西貿易の要にあったタングート族の国家であった西夏と、西北モンゴリアの森林の民であったオイラート族やキルギス族を破り、東方では、1211年に華北の金に侵入し1215年に中都(いまの北京)を陥落させた。1218年には、山西・河北一帯を占領。その後は中央アジアを侵略し、同年、カラキタイ(西遼)を奪っていたナイマン族のクチュルクを討ち、その国を従えた。東トルキスタンの高昌(トルファン)に拠っていたウイグル王国もこれ以前に、チンギス・カンに隷属していたという。こうなると、次は、当時中央アジアにおける最大イスラム勢力であったホラズム・シャー朝と接触することになるが、紆余曲折を経て、チンギスは1220年にサマルカンドとブハラを占領し、ホラズムのスルターン(アラーウッディーン・ムハンマド)が逃走、死亡した。1223年には、モンゴル軍がロシア諸公の連合軍に勝利し、ロシア諸都市を破壊し、ドニエプル河から進んでアゾフ海沿岸を蹂躙して、クリミア半島に入り、スダクの町を占領した。同年、モンゴル軍はさらにヴォルガ、カマ河領域にあらわれ、ブルガリア人の土地も攻略した。

 

 以上、チンギス・カンの破竹の勢いを見てきたが、もとはといえば、テムジン(チンギス・カン)は、ネストリウス派のケレイト族の庇護のもと、力をつけ、同じくネストリウス派のオングト族の協力のもと、モンゴリア高原の統一を果たしたのであった。この功績で、オングト族の首長たちは、代々チンギス・カン家の附馬(娘婿)になったほどである。(オングト族は、のちにフビライ・カンの附馬にもなる。)こうした経緯もあり、チンギス・カン亡き後のモンゴルでは、ネストリウス派がそれなりの存在感を示したようである。

 

 ヨーロッパでは、ケレイト族あるいはオングト族やナイマン族をもとにしたかと思われるプレスター・ジョン(東方にいるというキリスト教徒の国王、プレスターとは司祭・聖職者の意)の伝説が広まっていたのと、恐ろしい勢いで勢力を伸ばすモンゴルの偵察、またヨーロッパとモンゴルの間にひろがるイスラム圏への対処の方法をさぐる意味もあって、キリスト教の宣教師たちを次々と東方へ派遣した。彼らの報告書にはネストリウス派の姿も描かれている。商人であるマルコ・ポーロも宣教師たちに少し遅れて東方に向かい、やはりネストリウス派について、いくらか記録を残した。次回からは、こうした西洋人が残した書物を読みながら、モンゴル内のネストリウス派の様子を、少しずつ見ていきたい。

 

 

(以上、☆『キリスト教史Ⅲ』森安達也著、山川出版社、1978年、p、245~248、☆『中央アジア・蒙古旅行記』訳者解説、カルピニ/ルブルク 護雅夫訳、講談社学術文庫、2016年、☆「オングト族の都城址「オロン・スム」」『江上波夫著作集4』、平凡社、1985年、☆「東アジアにおける最初の大司教モンテ・コルヴィノの伝道」『江上波夫著作集4』、平凡社、1985年、☆『オロンスム モンゴル帝国キリスト教遺跡』横浜ユーラシア文化館、2003年参照)