ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

『中央アジア・蒙古旅行記』とネストリウス派②ー2 ルブルクの旅行記(1253~1255年)

 

 ここ最近は、13世紀に次々とモンゴルに送られた宣教師たちの旅行記を読みながら、当時のネストリウス派について見ている。カルピニの旅行記につづき、今回は、ルブルクの旅行記を読んでいく。ルブルクが派遣された経緯と、ルブルクの旅の概要については前回、書いた。↓

 今回は、いよいよ本文に書かれたネストリウス派について見ていく。カルピニの旅行記にもネストリウス派は登場してきたが、ルブルクの旅行記では、モンゴル内のネストリウス派について、より詳細な記述がある。内容が煩瑣にならないよう、以下の項目にわけて書いていく。モンケ・カン、バトゥ、サルタクといったモンゴル内の人間関係については、前回の記事の相関図を参考にしていただきたい。

 

 

1、サルタクは、キリスト信者だったのか

 前回の記事で書いたように、ルブルクは、以前カルピニが世話になったバトゥの子サルタクがキリスト信者だという噂をきいたルイ9世によって派遣されたのであった。よって、その目的はサルタクとバトゥのもとに行くことであった。ソルダイアで、サルタクに会ったことがあるという主教の教会に泊まり、サルタクについて善いことをたくさんきいた。サルタクがキリスト信者という風評は当時、広く行き渡っていて、アルメニア年代記によれば、サルタクはロシアあるいはシリア人のキリスト信者に教育されて洗礼を受けたという。

 ルブルクが、ヴォルガ河を渡ってすぐのサルタクの本営につくと、コヤクというネストリウス派の要人が、サルタクとルブルクの間を取り持った。コヤクの指示で、ルブルクは祭服を着て、聖書や十字架を持参して、サルタクの前に出ると、サルタクは聖書を手にとり、福音書はこのなかに入っているのかとたずねたり、十字架を手に取り、十字架上の像をキリスト像かとたずねたりした。ネストリウス派アルメニア人のキリスト教では、十字架にイエス像をつけなかったので、サルタクには、ルブルクの持ち込んだ十字架が珍しかったようである。とはいえ、ルブルクの見たところ、サルタクはキリスト信者と呼ばれるのを好んでおらず、むしろキリスト信者をばかにしているようにさえ見えた。

 後日、ルブルクは、サルタクが父バトゥのもとへ行くようにいっているとコヤク経由で知らされる。バトゥのもとに旅立つルブルクに、ネストリウス教徒のコヤクは「儂等のご主人様をキリスト信者と呼んでもらいたくはない。あのかたはキリスト信者ではなく、モンゴル人だからな。」と言った。これをきいたルブルクは、モンゴル人にとって「キリスト教」という言葉が一つの種族のように理解されているようだと感じた。

 サルタクがキリスト教について、それなりの知識はあったのは確かのようだが、結局キリスト信者だったかは、よくわからない。

 

2、ネストリウス教徒のいる場所

 ルブルクが旅をするうちにわかったネストリウス派の所在地は、おもに①カイラク周辺と②カタイ(中国)であった。一つ目のカイラク(オルガヌム)は、コパルの西方だというが、コパルは、セミレチエ州(現在のカザフスタン東部とキルギス北部)に6つあった郡の一つである。カイラク(オルガヌム)から3リーグ(12㎞ぐらいか?)行ったところには、ネストリウス教徒ばかりの村があり、ルブルクはそこで久しぶりに教会を見て、喜んでいる。ちなみに、この辺りでは、カルピニやルブルクがモンゴルを訪問した時代にほど近い13世紀~14世紀のネストリウス教徒の墓石がたくさん見つかっている。

 ルブルクの時代にネストリウス派がいたもう一つの場所は、カタイ(中国)であるが、カタイ(中国)がモンゴルに服属したのは1279年のことだから、この頃のカタイはモンゴルに服属する前になる。カタイにおいて、ネストリウス教徒とイスラム教徒は異邦人のようにして住んでいたらしいが、この頃のカタイの15の都市にネストリウス教徒がおり、セギン(西安かもしれないが、いまだはっきりしていないらしい)には、一司教座があったという。ここのネストリウス教徒は、シリア語で政務日課を誦え、シリア語で書かれた聖典類を持っていたが、シリア語は全く無知だったという。また彼らは、高利貸しを行い、飲んだくれで、タルタル人(厳密にいうとタルタル人=モンゴル人ではないが、ルブルクがここでいうタルタル人はモンゴル人のことを指すのだろう)のように妻を何人も持つものもあり、教会に入る際は、イスラム教徒のように身体の下の方の器官を洗い(現在のイスラム教にもこうした作法があるのだろうか??)、金曜日ごとに肉食をし、イスラム教徒のしきたりに従って、その日に祝宴をひらいていたという。ネストリウス派の聖職者は、基本的に妻帯しないが、時代や場所によって妻帯者がいるときがあって、この頃のモンゴル内のネストリウス派の聖職者は妻帯した時代の一つだったようである。司教がこれらの地域にくるのは、50年に1回ぐらいのことで、司教が来ると、人々は男児を~揺かごにいるものさえ残らず~司祭にしてもらい、それゆえ、男はほとんど司祭と言っていい有様だったという。そして、こうして司祭になった男どもは、この後、結婚するのだが、彼らは自分の妻と子どもたちにはよく気を配るが、まことの信仰を広めることより、金もうけの方に気をとられていた。司祭の誰かがモンゴル人貴族の子息たちを教育する場合、福音と信仰は教えるが、その生活が堕落しているうえに貪欲だから、かえってモンゴル人貴族の子息たちをキリスト教の信仰から遠ざけてしまうと、ルブルクは手厳しいことを書いている。サルタクが、キリスト信者と呼ばれるのを好まなかったり、ネストリウス教徒のコヤクが、サルタクはキリスト信者でなくモンゴル人だといった背景に、ネストリウス教徒のこうした行状の噂などがあったのかもしれない。

3、ウイグル人とネストリウス教徒、カラコルム

 ネストリウス教徒の多い上述のカイラク(オルガヌム地域)とその東方には、ウイグル人がいた。また、カラコルムは、この時代のモンゴルの首府的な存在だったが、ルブルクはこのカラコルムは、ウイグル人の領域だと書いている。注釈によれば、これは、9世紀の中頃、ウイグルキルギスの攻撃を受けて滅亡し、トルキスタンに移るまでウイグル人が拠っていた領域という意味だという。カラコルムは、11世紀には、ネストリウス派に改宗したケレイト族の首府でもあった。ウイグル人=ネストリウス教徒では、決してないが、ネストリウス派ウイグル人は、このカラコルム辺りでケレイト族と交わるうちに生まれたのだろうか?注釈には、ウイグル人は元々シャーマニズムを信じていて、8世紀にはマニ教を国教にしたが、上述のようにウイグルが西方に移動してから、ネストリウス教徒やイスラム教徒になるウイグル人が出てきたとあるが。ルブルクは、モンゴル人がウイグル人の文字を採用したのは、カラコルムウイグル人の領域だったためで、ウイグル人は、モンゴル人の書記長をつとめており、ネストリウス教徒のほとんど全部がウイグル人の文字が読めると書いている。カルピニの旅行記に、グユク・カンの首席書記のチンガイ(鎮海)がネストリウス派ウイグル人だったとあり、その背景には、やはりこのように文字の問題があったのは間違いなさそうである。

 ところで、ルブルクはカラコルムを訪れており、その記述によれば、カラコルムには、モンケの大きな本営があり、それは市の城壁の近くで、ヨーロッパの修道院のようにレンガの壁で囲われていて、その中の宮殿は、教会のようなつくりで、身廊(ネーブ)と側廊(アイル)を備えていて、南口に戸口が三つついていたという。モンケは、年二回、ここで大酒宴を開いていた。宮殿の規模は、サン・ドニ修道院の10分の1ほどだったらしい。またカラコルムには二つの市区があり、一つはイスラム教徒の地区で、そこでは多くの市が開かれ、たくさんの商人が集まっており、もう一つの市区は、みな職人であるカタイ人の地区だったという。この二市区のほかに、宮廷の書記たちの大邸宅があり、さらにいろいろ異なった民族の異教寺院が12、イスラム礼拝堂が二つ、町の一番端にキリスト教の教会が一つあったという。ルブルクによるこうしたカラコルムについての記述の多くが、今日発掘で確認されているという。

 また、改めて確認すると、上述のカイラク周辺やカラコルムといった場所は、11~12世紀にネストリウス派がいた場所とだいたい重なるようだ。↓

 

4、モンケ・カンの周辺にいたネストリウス教徒

 バトゥの指示で、当初の予定と違って、モンケ・カンを訪問することになったルブルク一行は、バトゥのもとを発ち、遠路はるばるモンケ・カンの本営に向かった。カラコルムから10日ほどの距離のところ、カタイから20日ほどの距離にあったモンケ・カンの本営にたどり着いたのは、バトゥの本営を出て3か月以上が経ってからであった。

 モンケ・カンの周りにはネストリウス教徒あるいはキリスト信者に近しい人間が多かった。ルブルクがモンゴルに向かう前年には亡くなっていたが、モンケの母でケレイト族のソルガクタニは、キリスト信者(ネストリウス派か??)だった。モンケの同母弟アラブッカ(アリク・ブカ)は、ネストリウス教徒に教育されていて、福音を知っていて、ルブルクが持ち込んだ聖書を見たがった。カラコルムには、パリ生まれで黄金細工人のウィリアム親方という人物がいたが、彼はキリスト信者で、モンケの母ソルダクタニの奴隷で、ソルガクタニ亡き後は、モンケの弟アラブッカに引き継がれていた。また、この頃には、すでに亡くなっていたがモンケが非常に可愛がったモンケの夫人の一人が、キリスト信者で、残された娘ツィリナは、ネストリウス派の礼拝に参加しており、ルブルク達を敬虔な様子で居室に入れた。このツィリナの乳母はキリスト信者で、その乳母の夫はすべてのネストリウス教司祭の中で一番尊敬されていた。また、モンケの別の夫人コトカ(クトゥクタイ)とその息子のバルトゥは、ネストリウス派の礼拝に参加していた。ネストリウス派のしきたりでは、礼拝では、ひたいを床につけひれ伏し、ついで、教会内の全部の像に右手で触って、そのたびごとにその手に接吻した。その後、教会に列席するもの一人一人にその右手を差し出し与えたという。こうしたネストリウス派の礼拝は、天幕の中では決して行わず、常設の教会で行った。モンケ・カンが立ち会うときもあり、カンが立ち去ると教会に残った夫人が、キリスト信者全部に贈り物を配ったり、司祭たちと酔っぱらうまで飲み食いをしたりしていた。また、上述のモンケとコトタ(クトゥクタイ)夫人の息子バルトゥのしつけ役は、ダヴィドというネストリウス教司祭の教師だったが、この人は飲んだくれであった。しかし、ネストリウス教徒たちは暦に合わせて断食もしていたようだ。第二夫人であるコタや、もう一人の夫人は、異教徒だったり、占者や偶像礼拝者たちの信奉者だったが、彼女たちの住居もルブルクやアルメニア人聖職者が訪れ、病に臥せっていたコタ夫人の具合が、異教徒の呪術で良くならならないと、モンケがアルメニア人修道僧に使いをやり、どうしたらと良いかとたずねてきたりした。安請け合いしたアルメニア人聖職者は、ルブルクに泣きつき、ルブルクは、そのアルメニア人が持っていた大黄を入れた聖水をコタ夫人に飲ませることをすすめた。そうしたところ、コタ夫人の体調が回復するということがあった。(大黄は生薬の一つであったが、このときのルブルクは、この生薬を、アルメニア人聖職者がイェルサレムからたずさえてきた何か聖物だと信じていたらしい。)また他にも、父親が助祭長で本人自体も父親のように助祭長と思われて、教育も十分あるヨナスというネストリウス教徒もいた。宮廷でルブルク達を、とっくり調べた書記長のブルガイもネストリウス教徒だったし、モンケの通訳者もネストリウス教徒だった。

 

5、モンケ・カンはキリスト信者になったのか

 上記のように、モンケ・カンの周辺は、母親、夫人、息子、娘、弟などネストリウス教徒に近しいものとか、キリスト信者が多かったが、モンゴル内にはキリスト教徒以外にも、イスラム教徒、ラマ教徒などもいた。モンケ自身の宗教観とはどういうものだったのだろうか。

 ある日、当初の予定より滞在が伸びていたルブルクに、モンケは、唯一の神しかましまさぬことを信じ、われわれはその神に、正しい心をもってむかうといった。さらに、神は手にいろいろ異なった指を授けたもうたように、人々に、いろいろな異なったみちを与え給い、ルブルク達には聖書を授けたもうたのに、キリスト信者はそれを守らないといった。ルブルクが、自分はそんなことはないと答えると、モンケはそれを認めつつ、その他のキリスト信者が聖書を守らないことを再び訴え、対して自分たちモンゴル人には、神が占者たちを与え給うて、自分たちはこの占者たちの告げるままに行動し、安穏に暮らしているといい、ルブルクに帰国するように告げた。つまり、モンケ・カンは、唯一神を信じるが、その日々の行いは、キリスト信者でなく占者に従っていたのである。実際、モンケは、ことを起こす前に、羊の肩甲骨を焼いて占ったりしていた。モンケの謁見式は占者たちの祝日か、ネストリウス教の司祭たちが何かの理由から聖日だという日に行うのがカンのしきたりで、そういう日には、まず盛装したキリスト教の司祭たちが来てモンケ・カンのために祈り、酒杯を祝別し、続いてイスラム教の司祭が似たようなことを行い、次に異教の司祭が来て同じようなことをしており、それゆえアルメニア人修道僧は、カンが信用しているのはキリスト信者たちだけだとルブルクにうそぶいていたようが、実際は、違ったのである。ルブルクの他の記述を読むと、亡くなったキリスト信者だったモンケの夫人(ツィリナの母)の周辺で、占者がうごめいて、キリスト信者に濡れ衣をきせたりしていたのがわかる。カンの周辺には、ネストリウス派あるいはキリスト信者を邪魔に思う占者たちがおり、カンは占者たちのほうを重んじていたようだが、カンが占者のシンパの行き過ぎた行動は許さなかったこともルブルクは書いている。

 

6、モンゴル内にいたネストリウス派以外のキリスト信者やその他

 モンゴル領内には、ネストリウス派以外にも、ギリシア人、アラン人、ルテニア人、ジョルジア人、アルメニア人、ハンガリー人などのキリスト信者がいた。これらのうち、厳密なキリスト信者は、モンゴル人が飲むコスモス酒(馬乳酒)を飲まなかった。逆に、コスモス酒などを飲んでいるがゆえに、自分たちが救われうるか心配しているキリスト信者もいた。東方正教会は、1054年にローマ教会から分離したが、アラン人はローマ教会に属していた。また、ハンガリー人のキリスト信者は、ルブルクの辛い旅において慰めになったが、ボヘミアでは1232年にルブルクの所属するフランシスコ修道会が国教会になっており、ここからハンガリーに伝道が行われていたようで、ハンガリー人のキリスト信者にとっても、フランシスコ会のルブルクには親近感がわいていたのかもしれない。また、モンケのもとで、ルブルクとたびたび行動をともにしたアルメニア人修道僧もいた。しかし、このアルメニア人は、「カンがキリスト信者になるならば、全世界はその支配のもとに入り、フランス人と権力ある教皇ともにかれ(カン)に服するにいたるだろう」とカンに告げて、ルブルクにも同じことをカンに言うようにとすすめ、ルブルクを困らせたり、マニ教徒の異端説を唱え始めたり、イスラム教徒を犬といってイスラム教徒との間に余分な軋轢をうんだり、ウィリアム親方に余分なものを飲ませて体調を崩させたり、上述の教育あるネストリウス教徒のヨナスとたびたび衝突したりしていた。ルブルクの滞在中、このネストリウス教徒のヨナスが亡くなり、ルブルクには潰瘍が原因かと思われたが、じつは、このアルメニア人修道僧が、イスラム教徒の占者と組んで、ヨナスを祈り殺したという。ルブルクが帰路、この修道僧の生国で確認したところ、このアルメニア人は、修道僧でも何でもなくて、一介の織物工だったことがわかった。この「修道僧」に限らず、モンゴル内には自称、聖職者や使節が存在していた。彼らの嘘がわかると、モンゴル人は彼らを殺してしまったが、例のアルメニア人修道僧がどうなったかは、ルブルクの旅行記からは、わからない。

 余談だが、アサシン暗殺集団がモンケ・カンの命を狙うため、潜入しているという情報も、カンに伝わっていた。他にも、シリアのイスマイル派アッバース朝のカリフ、インドのスルタンやセルジューク朝使節がモンケ・カンのもとにやってきていたようである。

 

7、モンゴル内におけるネストリウス派の存在とは?

 これまで見てきたように、モンゴル内、とりわけモンケ・カンの周辺において、ネストリウス信徒は多数存在し、かなり重要なポストについていたのは間違いなさそうだ。しかし、それは宗教者というより、書記官として、あるいは文字や言語をつかさどる者としてが一番で、あとは財力を期待されていたのではないか、あるいは医薬的な知識(呪術的な力かもしれない)を期待されていたのではないかと感じた。

 モンゴル内において、ネストリウス派以外のキリスト信者たちは、モンゴル人の捕虜になってからは、その秘跡の儀式に参加できず、彼らが、ネストリウス教徒の洗礼をもう一度受けなければ、ネストリウス信者たちは彼らを教会に入れようとしなかった。しかし、ネストリウス教徒たちは、ルブルクには、ローマ教会はあらゆる教会のかしらであって、道さえひらけるものなら、教皇から総大司教大司教を任命していただきたいなどと言っていた。ネストリウス派は、ユーラシアにおいて、たびたび他の東方諸教会を束ねるような立場にあったので、ネストリウス派以外のキリスト教徒には強権的に行動していたのかもしれない。しかし、ローマ教会を背景にしたルブルクには違った態度をとったのは、なぜだろう。ルブルクの持ち込んだ聖書や十字架が華やかにみえたのだろうか、あるいはモンケや占者たちの動きをみて、西方とつながることがモンゴル内で自分たちが優位な立場に立つのに必要だと思ったのだろうか、それとも、常に時の権力の保護を受けて生き延びてきたネストリウス派は、ローマ教会を背景にする西側の世界が次の覇者になる可能性を見越して、保険を掛けたのだろうか。

 

(2021年12月4日補筆)

 

(以上、☆『中央アジア・蒙古旅行記』カルピニ/ルブルク 護雅夫訳、講談社学術文庫、2016年、☆「カルピニとルブルク」『山の文学全集Ⅺ 中央アジア探検史』、深田久弥著、朝日新聞社、1974年、☆「7、ネストリオス派教会」『キリスト教史Ⅲ』森安達也著、山川出版社、1978年、☆『考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化』E・ルトヴェラゼ著、加藤九訳、平凡社、2011年、p、169参照、☆『モンゴルの歴史と文化』ハイシッヒ著、田中克彦訳、岩波文庫、2020年、p、425~432)

 

 

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