ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

大秦景教流行中国碑の発見とイエズス会

 

 このブログの初期に、フランス文学者である桑原武夫の父・桑原隲蔵による『大秦景教流行中國碑に就いて』を少し紹介した。これは、Amazonで無料で読むことができるし、古い資料だから、景教を調べる第一歩として読むのにいいと思ったのである。実際、これによって、大秦景教流行中国碑(以下、景教碑)の概要~景教碑の外観や、景教碑が偽物ではないと確定した理由など~を知ることができた。しかし、はじめて読んだときは、ここに出てくる西洋人だとか中国人の名前をみても、それがどういう人たちなのか、自分には全くわからなかった。それで、しばらく放置していたのだが、最近、ようやくこの文章の中の、とりわけ景教碑発見に関して登場する人物たちの大半が、当時の中国すなわち明にいたイエズス会の宣教師たちとそれに関係する中国人だということがわかってきた。たとえば、1625年には、景教碑の拓本を手に入れたと書かれている李之藻は、イエズス会の中国(明)での初期伝道に関わったマテオ・リッチ(中国名 利瑪竇)の影響でキリスト教徒になった中国人であった。景教碑が見つかった頃には、マテオ・リッチはすでに亡くなってはいたが、マテオ・リッチは、直接・間接に日本と関係のある人物であった。↓↓↓(マテオ・リッチと日本、李之藻との関係については、こちらをご覧ください。)

 

 

また桑原氏による『大秦景教~』には、景教碑発見の年は、セメドが記した1625年説が定説であると書かれているが(桑原氏は、1623年辺りの年だという説も否定していない)、ここに出てくるセメドとは、マテオ・リッチの死の約三年後に明に入ったイエズス会士である。そして、セメドの文章に出てくるLeo(n)とは、先に書いた李之藻のことである。

 

 桑原氏以外の資料を読んでみると、マテオ・リッチが亡くなって数年後から、景教碑発見後しばらくまでは、明のイエズス会士や李之藻などにとっては、苦難の時期だったようである。セメドが明に入ったのは1613年のことだったが、1616年頃から南京礼部侍郎の沈㴶によって、反キリスト教の動きがはじまり、セメドは他の宣教師とともに投獄され、ついでマカオに追放された。しかしセメドは、中国名を謝務禄から魯徳照と改め、1620年に再び明に入国し、おもに杭州に滞在し、1624年に司祭となった。セメドが実際に景教碑を見ることができたのは、1628年のことだという。景教碑が発見された年について、定説になっているセメド説(1625年)以外にも諸説あるようだが、それは、景教碑が発見された頃が、明におけるキリスト教迫害時期にあたり、明内の宣教師たちが迫害による移動などで落ち着きのない日々を送っていたからではないだろうか。杭州に逃れていた宣教師たちは、李之藻から拓本を見せられたかどうか定かではないが、少なくとも景教碑発見の報は知らされて、歓喜したようである。景教カトリック(ローマ教会)ではないが、碑の発見当初は、景教ネストリウス派を指すということもわからず、碑に刻まれた十字架から、景教碑がキリスト教に関係するものだということだけがわかり、キリスト教迫害下にあった明の宣教師たちや李之藻を励ましたことだろう。

 

(大秦景教流行中国碑上部)

 

 次回は、この景教碑発見の報が、日本にも入ったのかどうかを考えてみたい。

 

 

(以上、①『大秦景教流行中國碑に就いて』桑原隲蔵著、底本「桑原隲藏全集  第一 卷  東洋史説苑」 岩波書店 青空文庫. Kindle 版.1938年初版、②『イエズス会と中国知識人』岡本さえ著、山川出版社、2016年、③『大航海時代叢書 第Ⅱ期8 中国キリスト教布教史一』岩波書店、1982年、④『大航海時代叢書 第Ⅱ期9 中国キリスト教布教史二』岩波書店、1983年参照。)