ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

マルコ・ポーロ『東方見聞録』とネストリウス派①

 

 ここ最近は、13世紀半ばに、モンゴル帝国を訪れたローマ教会の宣教師たちが書いた旅行記を読みながら、モンゴル帝国内のネストリウス派について見てきた。↓↓↓


 

 宣教師ルブルクが帰国して約15年後、今度はマルコ・ポーロが東方に渡って、フビライ・カンのもとに約17年間滞在した。マルコ・ポーロは、そのとき見聞きしたことを、後年、ジェノアの牢獄にいるとき、同じく囚人であったピサの物語作家ルスチケロに口述筆記させた。それがいわゆる『東方見聞録』である。今回は、この『東方見聞録』を読んでいくが、『東方見聞録』にもネストリウス派についての記載がある。以下の項目に従って、少しずつ見ていこう。

 

1.はじめに

 ヨーロッパ各地の五十有余の図書館には、百四十余種の『東方見聞録』の古写本・古版本が現存するという。専門家によれば、これらはおもに6類に区別されるが、ざっくりいうと、こちらの類に入っている話が、あちらの類には入っていないといったことがあるらしい。それで、一番祖本に近いと考えられるF本(イタリア語がかった中世フランス語写本)をもとに、他の系統にのみ入っていた話も合わせたイタリア語の集成本ができ、それをリッチが英訳した。今回は、そのリッチの英訳本を訳したという『[完訳]東方見聞録』(愛宕松男訳注、平凡社)を読んでいく。本文をよく理解するには、マルコ・ポーロ時代の中国側の文献も照らし合わせて検証することが必要だそうだが、この平凡社版の『東方見聞録』は、そうした訳注が載せられているのが特徴である。以後の記述は、基本的にこの平凡社版の本文と訳注に拠っている。

 

2.マルコ・ポーロが訪れた時代のモンゴルの状況とマルコ・ポーロが東方を訪れることになった経緯について

 ルブルクが訪れたときのモンゴル帝国では、モンケがカンだったが、1260年、フビライが兄・モンケの後を継ぐと、帝位継承をめぐって内紛が起こり、帝国が分裂し、フビライ・カンの領地は東経85度以東すなわち東アジアに限られた。これが、いわゆる元朝である。こうした最中、元を訪れた西洋人がいた。マルコ・ポーロの父ニコロとその弟マテオである。二人はヴェニスの商人であったが、折しも1260年にヴェニスを発ち、コンスタンチノープル、ソルダイアに入った。この頃のソルダイアにはヴェニスの商館があったのである。ニコロ兄弟は、さらに前方に進むことにし、キプチャク・カン国(西北タタール)のバルカ・カン(ベルケ)の宮廷に到着した。バルカは、ニコロ兄弟を歓待し、ニコロ兄弟が献上した宝石も気に入ったようであった。兄弟はバルカの元に一年滞在することになったが、1262年、バルカ・カンとイル・カン国(近東タタール)のフラグ・カン(アラウ)の間に、戦いが勃発してしまう。二コラ兄弟はコンスタンチノープルに引き返すこともできず、さらに前方にすすむことにし、チャガタイ・カン国のボラク・カン(バラク)の治める大都市ブカラ(ブハラ)に到着した。そこで、フラグ・カンから派遣されてフビライ・カンのもとに向かう使臣に誘われて、フビライ・カンのいる都を目指すことにした。一年にわたる旅の末、ニコロ兄弟がフビライの元に着くと、フビライは喜び、キリスト教国の諸皇帝についてや、ローマ教皇・教会ならびにラテン人の風習などについて、あれこれ質問をした。兄弟の回答に満足したフビライは、教皇宛の宸翰をニコロ兄弟に託した。親書の内容は、キリスト教に通暁し、七芸(修辞学、論理学、文法学、数学、幾何学天文学、音楽)に練達し、かつ偶像崇拝者やその他の教派の信者を論破できるだけの力量を備えた賢者百人ばかりと、エルサレムの聖墓にともされているランプから少々の聖油を持ち帰るようにというものであった。フビライは、こうした内容をニコロ兄弟に指図し、黄金牌子を授与した。この牌子を携帯していれば、その赴くところ、どこであっても、必要な宿舎と乗馬が供給されるのみならず、一都市から次の都市に到達する間の護衛兵まで与えられるのである。ニコロ兄弟が、この黄金牌子を携えて、アークル(アッコ)に到着したのは1269年のことであったが、そこですでに教皇が亡くなっていたことを知った。それで、新しい教皇が選出されるのを待つ間、ヴェニスに戻ったが、ニコロの妻は前年に他界しており、15歳になるマルコという息子がいた。この息子こそ、マルコ・ポーロである。ニコロ兄弟は、2年ほど新教皇の選出を待ったが、なかなか選ばれないので、マルコを連れて、アークル(アッコ)に向かい、ローマ教会の特使に面談して事情を話し、キリスト墓前のランプから多少の聖油を手に入れるためにエルサレムに赴く許可をもらった。そこでニコロ兄弟は、エルサレムに向かい聖油を手に入れると、アークル(アッコ)に戻り、フビライの元に向かったが、ライアス(地中海東端に臨む小アルメニアの海港)で足止めをくらった。そこに新教皇選出の報が入り、ライアスをまだ出ていないなら、一度教皇の元に戻るように言われたので、兄弟はアークル(アッコ)に戻って早速教皇のもとに赴き、教皇フビライに向けて、信書を数葉作成させた。その内容は、フビライが、イル・カン国(近東タタール)のアバガ(フラグの息子)に訓令を発し、アバガをしてキリスト教徒に好意と援助を与えしめ、キリスト教徒が海路その領域に往来できるよう取り計らってもらいたいという希望であった。教皇フビライへの贈呈品として、水晶などの美麗な贈り物を用意し、さらに賢者の名声この上ない二名の説教僧をニコロ兄弟に同伴させた。こうして一行はいよいよ東方に向かったが、ライアスに着いたところ、エジプトのスルタンがアルメニアに侵入し、国内を荒らし回っており、一行も殺害される危機となった。この情勢を見た くだんの二人の説教師は怖気づき、同行を取りやめてしまい、結局ニコロ兄弟とマルコだけでフビライの元に向かうことになった。一行がようやくフビライの都にたどり着いたのは、1274年の夏のことであった。ニコロ兄弟がマルコを伴って、フビライに謁見すると、フビライは労をねぎらい、彼らが献上した聖油のことも大いに喜こんで珍重した。フビライは、マルコに目をとめ、マルコがニコロの息子だと知ると「遠路のところ大儀に思う。目をかけてつかわそう」といった。以後、ニコロ兄弟とマルコは17年に渡って、フビライの元に逗留した。フビライは、モンゴル人の習俗、言語、文字をまたたく間に習得して四種の言語・文字(モンゴル語、ペルシア語、トルコ語ギリシア語。ウィグル字、ペルシア字、アラビア字、ギリシア字だという)とその書法に精通した優秀なマルコを寵愛し、マルコを使者として、国内に派遣したりした。ここには、色目人(西域人)をモンゴル人に準じて優遇するという元朝独自の政策も関係していたかもしれない。とにかくマルコはフビライからの使命をよく果たし、国内旅行の様子をつつがなく報告し、フビライを喜ばせた。『東方見聞録』は、一部、マルコが訪れていない土地の伝聞の内容を含みつつも、基本的には、①マルコがフビライの元にたどり着くまでの中央アジアの様子、②元朝の事情、③国内旅行の報告、④帰路の南海航路の様子といった内容に大別される。元寇が起こったのは、この時期のことで、『東方見聞録』には、1281年の弘安の役の記述も出てくる。また、『東方見聞録』に、日本が黄金の国ジパングとして出てくることはあまりに有名で、それゆえマルコ・ポーロの話は信用できないという向きもあるが、訳注によれば、日本が黄金の国というのは、それほど的外れなことではないという。というのも、遣唐使、遣唐僧に朝廷から届けられる留学滞在費がほとんど砂金だったのと、奥州の金のことは宋でも特筆されていて、唐宋以降の中国で、日本に産金国というイメージがあったからだという。マルコ・ポーロは、中国人一般がもっているそうした日本へのイメージ代弁したにすぎないという。さて、1280年代になると、キプチャク・カン国やイル・カン国では、後継者を巡って、内部争いが激しくなっていた。『東方見聞録』の後半は、その辺りのことにも詳しい。マルコたちがヴェニスに戻ったのは1295年のことであるが、上記の内部争いの決着の一部はマルコたちの帰国後についたものであるから、『見聞録』に語られた内部争いの一部は、マルコが帰国後に伝聞したものも含まれるようだ。

  当時の複雑なモンゴルの内部の様子を、本文と訳注に照らし合わせて、まとめてみた。↓↓↓

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モンゴル帝国元朝並びに四カン国(『完訳 東方見聞録1』平凡社、P.26~27から引用・追記)

そもそもフラグ・カンは、シリアを巡ってイスラームマムルーク朝と対立関係にあったという。そこで、1262年にフラグとの戦いに敗れたバルカ(ベルケ)は、その後、フラグと対立するマムルーク朝と同盟を結んだらしい。対して、フラグ側は、東ローマ帝国その他のキリスト教国と同盟を結んだ。モンゴルのカンたちの各宗教との付き合い方の背景には、モンゴル内の覇権争いがあったようにみえる。

 

 次回は、いよいよ『東方見聞録』に出てくるネストリウス派についてと、フビライキリスト教の関係について見ていきたい。

(2021年12月13日、追記あり)

 

(以上、『完訳 東方見聞録1、2』マルコ・ポーロ愛宕松男訳注、平凡社、2016年、2010年参照)