ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

マルコ・ポーロ『東方見聞録』とネストリウス派②

 

 前回から、マルコ・ポーロの『東方見聞録』を読んでいる。ひとつ前の記事では、マルコ・ポーロが東方に旅立つまでの経緯や、当時のモンゴル、元の状況について確認した。↓↓↓


今回は、いよいよ『見聞録』に語られたネストリウス派についてと、フビライ・カンとキリスト教の関係について見ていく。

 

 

1.『東方見聞録』の中のネストリウス派

 『東方見聞録』によると、ネストリウス派ヤコブ派と言ったシリア系の教会のヤトリック(カトリコス)すなわち総主教が、バグダードの北西のモスールにあったという。775年、ネストリウス派カトリコスの座が、アッバース朝の首府バグダードに移っていたが、それからもう少し北西に移動したのだろうか。(1258年に、フビライの弟フラグがバグダードを屠って、アッバース朝のカリフを滅ぼしている。)『見聞録』を読み進めると、いまのアルメニアジョージアの辺りは、東方系のキリスト教国で、それより東の中央アジアに入っていくとイスラム教徒が増え、ロプ・ノールを過ぎると偶像教徒(仏教徒全般)が増えてくるのがわかる。東方において、ネストリウス派やその他のキリスト教徒は少数派であった。それでも、マルコ・ポーロの時代、20カ所ぐらいに、少数派ながらネストリウス派などのキリスト教徒が存在していた。ネストリウス派やその他のキリスト教徒が存在する場所には、だいたいイスラム教徒も存在していた。また、カシュガル以東のネストリウス派の所在地では、トルコ系のネストリウス教徒が多かった

 わかりやすくするために、下の地図を用意した。ネストリウス派のいた場所には水色の線、トルコ系ネストリウス派がいた場所には水色の〇ネストリウス派以外のキリスト教(教派が書かれずただ「キリスト教徒」とのみ書かれた場所も含む)がいた場所には青色の線イスラム教徒のいた場所には黄色い点を付けておいた。↓↓↓

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東方見聞録とネストリウス派(『完訳 東方見聞録2』平凡社、p.14~15引用、追記)

もう少し詳しく見ていくと、カシュガルからロプ・ノールまではトルコ系の旧西ウィグル王国の領域で、ロプ・ノール以東の沙州(敦煌)、甘州などはタングート(チベット)系の旧西夏国の領土であった。以前、敦煌莫高窟の北窟で宋代のネストリウス派の十字架が見つかっているらしいと書いたが、↓↓↓

あれは、このマルコ・ポーロ時代のものか、あるいはもう少し前の時代のものなのだろうか?またその十字架を持っていたのは、トルコ系の人物だったのだろうか??

 

 さて、『見聞録』には、テンドゥク(天徳)王ジョルジ(ゲオルギス)が出てくるが、ゲオルギスはオングト族の族長で、オングト族の本拠地はテンドゥク(天徳、今のフフホト)に北接する浄州路(オロンスム、現在の内モンゴル自治区)であった。チンギス・カンの時代の出来事から、オングト族とチンギス・カン一族が特別な関係にあったことは、以前書いたが、↓↓↓

ゲオルギスも、フビライ・カンの孫女と曾孫女を娶ったという。また、このゲオルギスはネストリウス教徒であったが、のちにカトリックに改宗したらしい。このように、カン宗家およびネストリウス派と縁が深いオングト族であるが、もとをたどればシャダ族で、さらにさかのぼるとウイグル国の伝説的始祖ブグハンに連なるという。シャダもウイグルと同じくトルコ系らしいので、オングト族もトルコ系といえるのかもしれない。

 

 『見聞録』によると、ネストリウス派がいるところに、少数だが教会堂もあった。その一つがカシュガルである。カシュガルには、1180年頃に、ネストリウス派の府主教区ができたから、この教会は、その頃から繋がるものだったのだろうか??また、鎮江には二つ、杭州には一つ、ネストリウス派の教会があったようだが、こちらは比較的新しい建立で、マルサルキス(大徳サルギス)と関係があった。マルサルキスは、サマルカンド人でネストリウス教徒であったが、1278年、鎮江府総督府の副ガルダチ(副代官)に着任し、1281年に、鎮江にネストリウス派の教会を二つ(大興国寺、甘泉寺)建立したという。杭州ネストリウス派の教会(大普興寺)も同じくマルサルキスによる建立だという。『見聞録』には、マルサルキスによる教会が三つしか出てこないが、実際は、マルサルキスは鎮江府に七つ建てたらしい。また、ネストリウス派かどうかわからないが、『見聞録』によれば、甘州に三つ、寧夏にも三つの教会堂があったという。こちらの建立のいきさつなどはわからない。

 

 『見聞録』で、南海航路上のキリスト教徒のいた場所をみていくと、インドのマーバール地方とキロンが出てくる。インドにはネストリウス派以前のキリスト教が伝わっており、聖トーマスの伝説もある。当時のマドラス地方には、ネストリウス教徒も1000人いたという。インドからさらに西にあるスコトラ島(ソコトラ島)は、島民がキリスト教徒で、バグダードに隷属する大司教(ネストリウス派ヤコブ派?)が一人駐在していたが、キリスト教徒の島民たちが比類のない魔術師たちで、大司教はその魔術を使わせないように苦戦していたらしい。アビシニア(エチオピア)の大王はキリスト教徒で、その下の六王のうち三人がキリスト教徒で残りがイスラム教徒だったという。

 

2.フビライ・カンとキリスト教

 フビライは、兄モンケの後を継いだが、モンケの周囲~妻や子ども~にはネストリウス派などのキリスト教関係者が多いことは、ルブルクの旅行記で確認した。ルブルクの旅行記には、モンケやフビライの同母弟であるアラブッカ(アリックブカ)が、ネストリウス教徒に教育されていたことや、アラブッカがルブルクが持参した聖書を見たがったエピソードが出てくる。フビライは、ニコロ兄弟に、エルサレムの聖墓につるされたランプの聖油少々と、キリスト教に通じ他教派の信徒を論破できる聖人の調達を命じたことは、前回書いた。モンケもアラブッカもフビライキリスト教徒ではないが、キリスト教のものには興味があったようである。フビライエルサレムの聖油を熱望したのは、母ソルガクタニがキリスト教徒だったからと『見聞録』は語っているが、愛宕松男氏の訳注によれば、彼女がキリスト教徒だった確証はなく、彼女がケレイト族だったためキリスト教徒といわれていたのだろうという。またこの頃にはソルガクタニはすでに亡くなっていた。

 『見聞録』には、フビライが、イエス・キリストマホメットとモーゼと仏陀の四聖人をいずれ劣らず尊敬し崇拝し、またこの四名の中でも神威の最も霊妙にしてかつ最高の真理を備えたものに対しては、特に尊崇を致し、ひたすらその庇護を祈るものであると語ったとあるが、フビライが考える最も霊妙な一人が誰をさすのかわからない。『見聞録』はまた、フビライキリスト教徒の前では、あえて自ら十字架をかけようとせず、その理由は、キリストのような非凡にして偉大な十字架の上で刑死させられたからだと語っている。ネストリウス派アルメニアの教会が、十字架にかけられたキリスト像を忌避していたとルブルクが書いているから、フビライの思考には、こうしたネストリウス派などの影響があるかもしれない。また『見聞録』には、フビライキリスト教徒にならない理由も書かれている。フビライの目には、国内のキリスト教徒は無知でなにごとも成しとげないし、その能力もない存在に見えており、対して偶像教徒(仏教徒)は気が利くし、奇跡もできるように見えていたらしい。そして、もしフビライキリスト教徒になりでもしたら、偶像教徒の間で大変な誹りを受けるだろうし、奇跡を行い得る偶像教徒がフビライの命も絶つことができるだろうと心配していた。それで、フビライは、ニコロ兄弟に、上述のように、エルサレム聖墓のランプの聖油少々と、他宗派の教徒を論破できる優秀なキリスト教の聖人の調達を熱望したらしい。奇跡とか、呪術というものは、この時代は、まだ身近な存在だったようで、ルブルクの旅行記にも呪術を使うイスラム教徒の話が出てくるし、『見聞録』にもサマルカンドキリスト教徒の奇跡話や、フビライの寵愛を受けたイスラム教徒アクマット(アハマッド)が、陰でフビライに呪術をかけていた話などが出てくる。モンケが、唯一の神を信じており、また神が色んな道を用意してくれ、キリスト教徒たちには聖書が与えられたが、自分たちモンゴル人には占者が与えられたといって、占者を重んじていたということは、以前書いたが、フビライの時代にも、占者はたくさんいたようで、『見聞記』は、元の冬の都カンバルック(大都、今の北京)には、キリスト教徒、イスラム教徒、カタイ人の占卜者、占星術師が合わせて5000人もいたという。同じく『見聞録』には、チンギスがワンカンとの戦いの際にイスラム教徒とキリスト教徒の占星術師に戦いの行方を予測させたところ、キリスト教徒の方が正確に予測したので、以後、チンギスがキリスト教徒を信頼し厚遇するようになったというエピソードも出てくる。歴代のカンにとって、占者が重要な存在だったのは間違いないだろう。モンゴルの文字はウィグルの文字をもとにしていて、ネストリウス教徒のウイグル人は、ウィグル文字が読めたから、モンゴルの宮廷で書記や通訳、教育係として存在感を示していたことは、カルピニやルブルクの旅行記で確認してきたが、『見聞録』によれば、イコグリスターン(ウィグリスターン、旧高昌ウィグル国)のキリスト教徒は往々にして偶像教徒(仏教徒)と通婚していたという。モンゴル宮廷内でも、偶像教徒の影響が強くなっていたのだろうか??しかし、やはりなぜフビライエルサレムの聖墓のランプの聖油を熱望したのだろう?

 

 そこで、少しフビライの置かれた立場を振り返ってみたい。(以下の話は前回の記事に載せたモンゴル・元の系譜を見ながら読まれたい)ルブルクの旅行記に出てきたアラブッカ(アリックブカ)とフビライは、モンケの跡継ぎを巡って争い、フビライがモンケの跡を継ぐことになったが、アラブッカ(アリックブカ)の味方だったカイドゥとの関係は良くなかった。そんな中にあって、カイドゥとその領土を隣接する、フビライの同母弟のフラグとは、良好な関係にあった。そのフラグは、シリアを巡ってエジプトのイスラムマムルーク朝と対立関係にあり、1262年、フラグと戦ったバルカ(ベルケ)は、フラグに敗れた後、そのマムルーク朝と同盟を結んだ。マムルーク朝と同盟を結んだバルカ(ベルケ)に対し、フラグ側は東ローマ帝国やその他のキリスト教国と関係を結んでいく。フラグやその息子アバガが、キリスト教国と関係を深めていく最中の1266年、カイドゥが公然たる軍事行動によって、フビライに敵対した。フビライは、フラグとの関係あるいは国内情勢からキリスト教国に近づくことにいくらかのメリットを感じていたか、その必要性があったのかもしれない。また、ローマ教会にこれまでのキリスト教徒とは違う何かを感じたか、あるいは何か期待するところがあったのかもしれない。

 ところで、1287年、フビライの叔父で、キリスト教徒だったナヤンがカイドゥとつながり、反乱を起こした。これはフビライの勝利で終わり、ナヤンは処刑された。『見聞録』によれば、この折、非キリスト教徒たちの間から「お前たちの神の十字架はいったいどうしていたんだ。キリスト教徒だったナイアン(ナヤン)をいっこうに擁護できなかったじゃないか」という嘲笑が起こったが、それを耳にしたフビライは、十字架を嘲弄した人々を厳しく叱責し、その場にいたキリスト教徒たちには「汝らの信ずる神の十字架がナイアン(ナヤン)を加護しなかったにしても、それには十分の理由があるはずじゃ。そもそも十字架は善であるから、そのなしうるところは必ず善行・正行に限られている。ナイアン(ナヤン)は主君に刃を向けた不忠な叛臣だから、かかる非業の末期をとげることこそ正当なのじゃ。汝らの神の十字架が正義に背いたナイアン(ナヤン)を庇護しなかったのはもっともなこと。かくてこそ十字架は善であり、いささかなりとも不善をなしえないものなのじゃぞ」といって、キリスト教そのものは否定しなかったという。

 

(以上、☆『完訳 東方見聞録1、2』マルコ・ポーロ愛宕松男訳注、平凡社、2016年、2010年、☆『オロンスム モンゴル帝国キリスト教遺跡』横浜ユーラシア文化館、2003年、p、59~62、☆「蒙古の王侯と欧州の教皇、王との往復書簡」『東洋旅行記』オドリコ、家入敏光訳、桃源社、昭和41年、☆「東アジアにおける最初の大司教モンテ・コルヴィノの伝道」『江上波夫著作集4』、平凡社、1985年、☆「ネストリオス派教会」『キリスト教史Ⅲ』森安達也著、山川出版社、1978年参照)

 

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