ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

森安孝夫著『シルクロード世界史』(講談社選書メチエ)を読みながら

 以前、敦煌莫高窟ネストリウス派の十字架が見つかっていることや、ユーラシアのあちこちにネストリウス派がいたことが記されているマルコ・ポーロの『東方見聞録』によれば、敦煌(沙州)にも やはりネストリウス派がいて その信徒はトルコ系(チュルク系)だったらしいということを書いたのだが、↓↓

 

森安孝夫著の『シルクロード世界史』(講談社選書メチエ、2020年)を読み直していたら、色々興味深いことが書いてあることに気づいた。ウイグルは元来モンゴル高原にいたモンゴロイドで、トルコ系の言語を話した騎馬遊牧民であったが、同書によれば、840年に滅びた東ウイグル帝国がモンゴリアから四散し、①南の漠南と、②河西回廊と、③天山山脈の周辺からタリム盆地に移動し、一つ目のグループは唐に攻撃され消滅し、二つ目のグループは甘州ウイグル王国を、三つ目のグループは西ウイグル王国を建てたという。そして甘州ウイグル王国は10世紀には敦煌にあった河西帰義軍節度使政権(実質は敦煌王国)と緊密に結びついてかなりの存在感を示したが、11世紀には東方から膨張するタングート族中心の西夏王国に吸収されたそうである。ということは、マルコ・ポーロの時代に敦煌にいたトルコ系のネストリウス派はこの甘州ウイグル王国の末裔だったのだろうか??ところで、甘州ウイグル王国との結びつきの強かった敦煌を支配した西夏は、契丹(遼)に臣事するようになった。↓↓

ただこの契丹(遼)は、西夏敦煌の河西帰義軍政権を滅ぼす前に、甘州ウイグル王国の攻撃に失敗していた。そうした契丹の統制力のゆるみに乗じて、ケレイト族のマルグズが力を伸ばし、そうしたケレイト族のもとでモンゴル族も力を伸ばしていき、のちにテムジン(チンギス・カン)も登場する。ところで、ケレイト族はこの頃、すでにネストリウス派に改宗していて、その影響かどうかは全然わからないが、1093年にはネストリウス派カトリコス契丹に主教を送っている。その後、1124年に、契丹(遼)は西走し、1132年に、現在のカザフスタンのチュー河畔のべラサグンに西遼(カラ=キタイ)を建国し、ネストリウス派は、この西遼(カラ=キタイ)の保護のもと新たに広まったが、↓↓

シルクロード世界史』によれば、上述の西ウイグル王国は、12世紀半ば以降、この西遼(カラ=キタイ)による緩やかな間接支配を受けていたらしい。しかし、チンギス・カンが東方から勃興してくるという情報を察知すると、いち早くその傘下に入ることを決断し、西遼(カラ=キタイ)から派遣された代官を殺害して、すぐさまモンゴル側に使者を遣って報告し、それゆえ、ウイグル王は、チンギス・カンの四人の息子に次ぐ五番目の息子という地位を与えられ、ウィグリスタンを本領安堵されたという。モンゴル時代に、准モンゴルともいうべき「色目人」の筆頭となって活躍したのはウイグル人で、その次がオングト、カルルク(トルコ系らしいがよくわからない)だったという。これまでモンゴルを訪問した宣教師たちが残した旅行記によって、カンの周辺にウイグル人のネストリウス教徒がいたことを知ったが↓↓

シルクロード世界史』よれば、モンゴル時代のウイグル人の主要宗教はネストリウス派でなく、仏教だったというから、色目人として重用されたウイグル人の多くも仏教徒だったのだろう(オングトとカルルクの多くはネストリウス派だったらしい)。東ウイグル帝国ではマニ教が国教だったはずだが、いつウイグル人の大半が仏教徒になったのだろうとずっと疑問であったが、同書によれば、10世紀後半から11世紀前半にかけて、ウイグルの国教がマニ教から仏教にゆっくり進行していき、その併存時代を経て、モンゴルの支配下に入ってからは、一貫して仏教が重んじられたという。

 

 ところで、ネストリウス派の信徒がモンゴルのカンの周辺で書記として活躍しており、それは、彼らがモンゴル文字のもとになったウイグル文字を読めたからだと、これまでに何度か書いてきたが、ウイグル文字のもとはソグド文字だという。つまり、ソグド文字→ウイグル文字→モンゴル文字の流れがあったのであるが、森安氏の古ウイグル語文書の解読によれば、ウイグル語の手紙の書式にも、ソグド語→ウイグル語→モンゴル語という流れがあるそうで、つまり、ウイグルには、ソグドの影響が色濃かったようである。ソグド人については以前書いたけれども↓↓

ソグド人は、5世紀ごろから突厥ウイグルといったトルコ(チュルク)系遊牧民と順次、関係を結び、西へ東へと商圏を伸ばし、トルコ系の遊牧民にソグド=ネットワークともいうべき商業・情報網や文字や宗教をもたらしたようである。『シルクロード世界史』によれば、契丹(遼)の時代には、ウイグル商人が存在したらしいが、その商人とは西ウイグル王国を本拠に当時のシルクロード=ネットワークで活躍したソグド系ウイグル人だったという。言い換えると、突厥ウイグルと言ったトルコ系遊牧民のベースには、ソグド=ネットワークがあり、遼もそれを利用したということらしい。

 

 以上、森安孝夫著『シルクロード世界史』を読みながら、改めて気づいたことを書いてきた。本書を初めて読んだときは「とても面白いことが書いてある気がするが、よくわからない」と思ったのだが、ネストリウス派の流れを一通り押さえたあと読み直すと、改めて興味深い内容ばかりであった。ネストリウス派の動きを追っていくと、トルコ系の遊牧民の盛衰とその相互関係、あるいはトルコ系の遊牧民と中国、それにイスラム政権との関係などが気になってくるのだが、自分でこの辺りのことを調べるのはお手上げであった。しかし、同書は、この辺りのことをしっかり教えてくれる。また今回は触れられなかったが、マニ教についての興味深い記述もある。シルクロードに興味がある方々には、既読の方も多い同書かと思うが、ネストリウス派について考える際にも大変面白い一冊だったので、ここでもご紹介させていただいた。