ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

ネストリウス派以前にインド方面に入ったキリスト教とネストリウス派以降のインドのキリスト教の流れ

 

 ペルシア方面だけでなく、インド方面にも、ネストリス派以前にキリスト教が入っていた。今回は、インド方面におけるネストリウス派以前のキリスト教ネストリウス派以後のキリスト教の流れを辿っていきたい。

 

 インドとその隣接諸国へキリスト教が広まったのは、キリスト教伝承によれば、使徒トマスと結びついている。伝説によれば、1世紀半ばにトマスがゴンドファレス王を訪れたことになっているが、このゴンドファレス王(ヴィンダ・ファルナフ大王)は、北インド制服王朝の一つパルティア族の王で、1世紀前半の人と考えられる。サカ族のうち、中央アジアからインドまで到達したものをインド・サカ人と言うが、これに対してアルサケス朝(アルシャク朝、安息)のミフルダート2世の誘いでイラン高原東南部のスィースターンに留まったサカ人をインド・パルティア人と呼ぶ。後者は、一応、アルサケス王家に臣従したことになっている。ゴンドファレス(ヴィンダ・ファルナフ)は、アルサケス家の弱体化に応じて、紀元20年にサカ人たちを率いてスィースターンで独立した。これがインド・パルティア王国(パフラヴァ王国)である。また、このゴンドファレス(ヴィンダ・ファルナフ)の傘下の諸侯としてサーサーン家というのが出てきて、これが「サーサーン家」の家名が歴史上に出現する初出らしい。しかし、インド・パルティア王朝の支配期間は短く、紀元1世紀後半にクシャンによって滅ぼされた。エデッサ出身のバルダイサン(紀元154ー222)あるいは、三世紀中頃バルダイサンの弟子によって編纂されたと言われる『諸国の法の書』というシリア語の書物には、クシャン国領内にキリスト教徒がいたことが記されているという。アルメニアの歴史家エギシェによれば、シャープール2世(紀元309ー379)の時代に、バクトリアインダス川までのクシャン国内(現在のトルクメニスタンアフガニスタンパキスタンの辺り)にキリスト教徒がいたらしい。

 

 インド南部のマラバール海岸にも古くから上述のトマス派のキリスト教徒がいた。マラバールのキリスト教とトマスが、どう結びつくかは はっきりしないが、交易の状況や古い伝承から推定して、この地域に2世紀にはキリスト教が伝えられたことはほぼ確実である。

 

 4世紀になると、ペルシア帝国のキリスト教迫害を逃れたシリア人が、このマラバール地方に移住し、インドの古いキリスト教とセレウシア・クテシフォンの東シリア教会(のちのネストリウス派)と結びつくことになった。ここでは典礼も東シリア式で、典礼用語もシリア語が用いられた。

 

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(本文関連地図)

 

 ユスティニアノス帝時代のコスマス・インディコプレウステスは、520~525年に行った航海に関する記録を残しているが、それによれば、インドのキリスト教徒はクイロン(現ケララ州南部)に主教を擁していたという。

 

 またタミル語の碑文によって、8世紀と9世紀に東シリアからネストリウス派の集団的移住が行われたことが知られる。

 

 その後から16世紀のポルトガル人侵入までのインドのキリスト教およびネストリウス派のことは、メソポタミアネストリウス派の資料がモンゴル軍の侵略の際に失われたり、16世紀終わりのインドにおける主教会議でインド教会の歴史を叙述する文献がネストリウス的異端として焼却されてしまい、わからない。ただメソポタミアの母教会の勢力が弱まり、インドへの主教派遣などが滞ると、インド教会の独立性は強まり、16世紀のポルトガル人の侵入以前の南インドキリスト教徒はかなりの勢力を有し、コーチンのラージャ(君主号、あるいは貴族の称号、サンスクリット語)はそれを抑制しなければならなかったほどだった。当時の府主教座はクランガノル(コーチンの北方数十キロ)のアンガマリに置かれていた。

 

 マラバールとローマ教会との関わりは12世紀初頭からあったようだ。マルコ・ポーロとほぼ同時代人で、ローマ教会の著名な宣教師モンテ・コルヴィーノのジョヴァンニは、中国に行く途中、1291年にマラバール海岸および東岸マイラプールのキリスト教徒のもとにしばらく滞在した。1328年には教皇ヨハネス22世によって、ドミニコ会士のヨルダヌスがクイロンの主教に任命され、1349年にはフランチェスコ会士のマリニョリのヨハネスが教皇クレメンス6世の使節としてマラバール地方を訪れたが、古くからのシリア語系のキリスト教徒との合同の成果はあがらなかった。1498年、ヴァスコ・ダ・ガマ南インドカリカット近くの海岸に到着したが、ガマは当時の南インドネストリウス派の勢力を約20万と見積もっている。

 

 南インドキリスト教徒の悲劇はイエズス会士の到来とともにはじまった。ポルトガル軍を背景にしたイエズス会は、ネストリウス派を異端とみなしており、その存在の根絶とローマ教会への帰属を強要したからである。ローマ教会との合同に反対するものは、異端審問にかけられ、拷問にさらされた。1599年のディアンぺル(コーチン南部、現ウダヤンペルール)で開かれた主教会議では、ネストリウス派的異端の誤りが弾劾され、ローマ教皇への無条件服従が決められた。さらに聖職者の妻帯が禁止され、異端審問が公認された。従来のように典礼用語にシリア語をもちいることは認められたが、典礼そのものはラテン式に合わせるよう修正が加えられた。ここにシリア・マラバール教会またはマラバール合同教会が起こったと考えられている。

 

 とはいえ、カトリック教会の強引な合同工作に反対した少なからぬキリスト教徒がおり、彼らは、合同教会とポルトガル軍の迫害を逃れて、山地で独自の教会を作り、主教を必要とした。彼らは、ネストリウス派であることにはこだわらなかったが、ネストリウス派と同じ東方(インドから見れば西方)から主教を招請する必要があった。彼らの要請を受けて、アレクサンドリアコプト教会総主教が、ネストリウス派と同じシリア系のシリア正教会(ヤコブ派)の司祭イグナティオス(シリア人アッタラー)を、インドの主教に叙階したが、イグナティオスは、インドに着いた1652年に異端審問にかけられ、翌年処刑されてしまった。これに、ローマ教会に従わないキリスト教徒たちは怒り、集団でコーチンのマッタンチャリ聖堂まで示威行進をし、イエズス会士の追放を誓った。そして、12人の司祭が一時的な教会の首長として補祭のマル・トマ1世を主教に選び、インドのキリスト教会は分裂した。このとき、約20万人の信徒のうち、ローマ教会に中世を誓ったのは、わずか400名だけだったという。

 

 事態を重く見たローマは、カルメル会士をインドに派遣し、離反したキリスト教徒の復帰工作にあたらせた。これにより、1662年には、約三分の二の信徒が、元の教会に復帰したという。

 

 1663年にコーチンがオランダ軍の手に落ちると、オランダがイエズス会をはじめとするカトリックの宣教団を追放し、カトリックはマラバールから手を引いた。

 

 一方、非ローマ派の一時的な主教だったマル・トマ1世は東方に主教を求め、1665年にアンティオキアのヤコブ派総主教が叙階した主教マル・グレゴリオスがマラバールに到着した。かくして、ローマ教会との合同を拒否したキリスト教徒は12年に及ぶ変則的な教会の在り方に終止符を打ったが、これを機にネストリウス派から一転してヤコブ派に移った。

 

 18世紀になると、ネストリウス派はインドの教会を再び自派に取り戻そうとし、1708年にマル・ガブリエルをインドに派遣した。マル・ガブリエルは、1730年までに、ローマ教会との合同派を切り崩したが、これはヤコブ派にも少なからぬ影響を与えた。マル・トマ1世はこうした状態を憂慮して、インドにおける全キリスト教の合同をはかったが失敗した。

 

 内紛が続くヤコブ派マラバール教会にはカトリックプロテスタント(とくに英国国教会)が働きかけるようになる。

 

 その後のインドにおけるキリスト教会の動きは省略するが、各種の複雑な動きが続いたといえる。1870年ごろ、マル・ディニュシオス4世のとき、ローマ教会とヤコブ派教会の合同が試みられたが、失敗した。インドのヤコブ派教会は、信徒数では世界最大のヤコブ派教会になっていたので、シリアの母教会は19世紀以降、積極的にインドに働きかけ、結果、シリアにおけるヤコブ派教会の内紛がインドにもそのままもたらされることになった。しかし、これは1957年に一応の決着をみたという。

 

 英国国教会に接近した改革派の一部は19世紀の終わりに分裂して、マル・トマ教会を設立した。この教会はヒンドゥー語を用いて積極的に布教を行い、インドのみならずネパールにまで布教の手を伸ばした。

 

 尚、ネストリウス派は上述のマル・ガブリエルの没後は教勢が振るわず、カトリック側に巻き返されて、ほんの少数派に転落したが、今日に至るまで二派に分かれて存在しているという。

 

 以上、まとめると、使徒トマスと関係するキリスト教が1世紀前半から4世紀の間にインドの北の方に、2世紀にはインド南部のマラバール海岸沿いに広がっていた。南部のマラバールには、4世紀にペルシアから逃れてきたシリア系の教会が入り、以後、ネストリウス派を含めたシリア系の教会がこのマラバールに入っていく。その後も、この地では、ローマ教会、カトリックプロテスタントといったあらゆる時代のあらゆる教派のキリスト教が入り、複雑で重層的な歴史を重ね、それは現代に至るまで続いている。母体であるメソポタミアネストリウス派の資料がモンゴル軍の侵略の際に失われたり、16世紀のポルトガル人の侵入を背景にしたイエズス会が、この地に古くから存在したネストリス派の資料を破棄したことなどから、残念ながら、それ以前の古いネストリウス派について、現在わかることは多くないようだが、この地がシリア系のキリスト教と関係が深かったのは確かなようだ。

  

 

(以上、☆『キリスト教史Ⅲ 東方キリスト教』p、226~234,森安達也著、山川出版社、1978年、☆『考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化』E・ルトヴェラゼ著、加藤九訳、平凡社、2011年、p、161~162、☆『アーリア人』p、67~89、p、155、青木健著、講談社メチエ、2009年参照)