ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

ネストリウス派とシリア語①

 

 キリスト教には、カトリックだとかプロテスタントだとかあるが、いずれも西方教会という括りになり、対して、ギリシア正教だとかロシア正教だとかは東方教会という括りになる。ネストリウス派は何かというと、ローマ教会が東西に はっきり分かれる(1054年)以前の431年のエフェソス公会議によって異端とされ(現在では異端というより、教会内の権力争いに敗れただけとも言われる)、以後、現在のイラク、イラン、中央アジアといった東方に拡がったキリスト教の一派のことである。それが唐の時代の中国に伝わり、景教と呼ばれた。広義では、ネストリウス派非カルケドン派などと合わせて東方教会に入れられるようだが、煩瑣になるので、ここではこれ以上、立ち入らない。

 

 ネストリウス派あるいは景教について知ろうとすると、大秦景教流行中国碑の存在を知ることになる。これは、唐時代の長安での景教の流行についてなど記した碑文で、781年に伊斯という人が建立したらしいが、明代に発掘されてその存在が確認されたらしい。当初は、この碑について、おもに西洋方面から真偽を疑うものが出たが、いまは偽物ではないということで落ち着いているようである。この辺りのことは、桑原隲蔵の『大秦景教流行中国碑』に詳しい。(これは、現在、Amazon電子書籍という形で読めるようになっている。)ところで、この大秦景教流行中国碑には、解釈の難しい漢文だけでなく、シリア語も書かれているそうでネストリウス派について知るにはシリア語碑文や文書の解明が必須であるらしい。しかし、なぜシリア語なのだろう?

 

 その謎がR.C.フォルツ著(常塚 聴訳)の『シルクロードの宗教 古代から15世紀までの通商と文化交流』(教文館、2003年)を読んで、いささか解けた。この本のp、98によれば、当時、シリア語は西アジア交易の共通語であり、東方教会(これが、ネストリウス派だけでなく非カルケドン派などを含むのかは、よくわからなかった)典礼言語となっていたらしい。初期キリスト教徒の間では、シリア語の「商人」(tgr)は、しばしば福音を述べ伝える者の隠喩として用いられたという。