ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

イスラームとネストリウス派

 

 イスラームキリスト教というと、なんとなく対立するイメージがあるが、ネストリウス派に関して言えば、そうでもなかったようである。今回は、この辺りを見ていきたい。

 

 ネストリウス派の資料によれば、カトリコス(ネストリウス派のトップ)のイショヤフブ2世は、マホメットと会見して、数々の特権を手に入れたと伝えられているという。750年に成立したイスラームアッバース朝は、762~766年の間に、首府を寒村のバグダードに移したが、その約10年後の775年に、ネストリウス派カトリコスも、その座をサーサーン朝ペルシアの冬の都セレウキア・クテシフォン(バグダードの南方約35kmの地)から、バグダードに移し、結果、歴代カリフとネストリウス派の教会の関係は密接になった。実際、カリフがビザンティン帝国やローマへの外交使節としてカトリコスを派遣したこともあったという。

 

 ネストリウス派カトリコスの座がバグダードに移って間もない780年に、ティモテオス1世(823年没)が、カトリコスに選出されたが、これは大秦景教流行中国碑が建立される一年前のことだった。ティモテオス1世がカトリコスに選出されると、以後、40余年に渡り、その地位についたが、ティモテオス1世によるこの40年が、ネストリウス派の黄金時代であった。その当時の様子は、ティモテオス1世自身が記した書簡のうち残された58通から垣間見ることができる。たとえば、書簡41からは、当時のネストリウス派が、バビロニア、ペルシア、アッシリア(現在のイラクからイラン南西部)や、インド、中国、チベット、チュルク人の土地に広がっていたことがわかるし、また書簡13(790年代後半)には、中国の大司教が亡くなったことが書かれていて、この時代の唐に、大司教が間違いなくいたことが知れる。またこの時代に、サマルカンドトルキスタンの府主教座に昇格し、ブハラやタシケントにも主教座が置かれ、チベットにも主教が派遣されたらしい。チベットの西ラダックの岸壁に、ネストリウス派の十字架の線刻とソグド語の銘文がまとまって発見されており、中でも一番長い銘文の書体は9~10世紀のものだという。そこに210年と刻まれているらしいが、それをヤズデギルド三世の紀年で考えるか、イスラーム化していた当時のソグディアナで使われていたヒジュラ暦で考えるかで、正確な年の解釈が変わるらしい。前者なら841~842年、後者なら825~826年になるらしいが、いずれにせよ、ティモテオス1世の少し後の時代のものと思われる。

 

(サマルカンドブハラ、タシケントの位置を確認したい方は、こちらをご参照ください。)↓↓↓

 

 ところで、なぜアッバース朝は、ネストリウス派と密接な関係を持ったのだろうか。ネストリウス派においては、シリア語が重要な言語であったが、ネストリウス派は、シリア語を通してギリシアの知を取り込んでいたし、ギリシア語文献を読むことができた。(ネストリス派などのシリア語話者は、ギリシア語に対して、アンビヴァレントな感情を持っていたが、イスラームの時代になるとそれがなくなった。)アッバース朝が必要としたのは、そうした知(アリストテレスの哲学やガレノスの医学など)であり、アッバース朝は、ネストリウス派キリスト教徒を、医師、技術者、学者として重用した。それで、ネストリウス派の文化的活動の中心であったニシビス、グンデシャープール、メルヴなどの学園は破壊されず、逆に利用されることになった。上述のティモテオス1世の書簡には、ヤコブ派(シリア正教会)やカルケドン派から、慎重に情報を取りつつ、アリストテレスの『トピカ』や『詭弁論駁論』『修辞学』『詩学』の注釈書などを手に入れようとしてしているティモテオス1世の姿が残されている。アッバース朝の7代カリフのマムーンは、830年にバグダードに「知恵の館」を創設し、組織的に医学書哲学書といったギリシア語文献のアラビア語への翻訳事業を行わせたが、その学頭として活躍したのが、ギリシア語に通じたネストリウス派フナイン・イブン・イスハークだった。またネストリウス派修道院も学問の中心的役割を果たしたが、中でもクォニ修道院(ダイル・クンナー、イラク南部、ティグリス川沿い、セレウキア・クテシフォンの南)は、アッバース朝キリスト教徒官僚の養成に寄与したという。この修道院出身のアブー・ビシュル・マッター・イブン・ユーヌス(940年没)を祖とする「バグダードアリストテレス学派」と称される人々が、アラビア語に翻訳されたアリストテレスの書物を改訳し、詳細な注解をつけることで、ファーラービー(950年没)やイブン・スィーナー(=アヴィケンナ 1037年没)に代表されるギリシアイスラーム哲学の展開の土台を築いたという。 

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(アッバース朝の首府バグダードネストリウス派の文化的活動の中心地)

 

  とはいえ、アッバース朝が重んじたのはネストリウス派の知だけではなかった。アッバース朝の初期には、天文学書などがサンスクリット語からアラビア語に翻訳されており、この背景には仏教国バクトリア出身で、アッバース朝の王族と密接な関係を築いていたバルマク一族の影響があった可能性があるという。しかし、このバルマク一族は、ハールーン・アッ=ラシード(在位786~809年)の治下(ティモテオス1世がカトリコスだった時代と重なる)、失脚してしまった。

 

 結局、イスラーム世界でギリシア起源の学問が優位になり、そうした学問と関係が深いネストリウス派がカリフと関係を強め、富裕化すると、高位聖職者の座は利権の対象となり、聖職が売買されるようになり、教会は腐敗していった。しかし、ネストリウス派の優位は続き、11世紀には、ヤコブ派(シリア正教会)とカルケドン派が、ネストリウス派カトリコスの管轄下に置かれるようになった。13世紀のモンゴルや中国でもネストリウス派は健在だったようである。

 

 

(以上、☆『キリスト教史Ⅲ』森安達也著、山川出版社、1978年、p、235~254、☆高橋英海「ユーラシアの知の伝達におけるシリア語の役割」『知の継承と展開』明治書院、H26年、☆『ソグド商人の歴史』E・ドゥ・ラ・ヴェシエール著、影山悦子訳、岩波書店、2019年、p、285~288、☆『ソグド人の美術と芸術』吉田豊、曽布川寛編、臨川書店、2011年、p、42~43、☆『考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化』E・ルトヴェラゼ著、加藤九訳、平凡社、2011年、p、169、☆『アーリア人』青木健著、講談社メチエ、p、178~180参照)

 

 

 シリア語話者がギリシア語にアンビヴァレントな感情を持っていた背景が気になった方は、こちらを↓↓↓

 

 大秦景教流行中国碑が建立された頃の中国や中央アジアの状況が気になった方は、こちらをご覧ください。↓↓↓