ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

10~12世紀 ケレイト族、契丹とネストリウス派

 

 前々回、アッバース朝が首府をバグダードに移転したのに合わせて、ネストリウス派カトリコス(ネストリウス派のトップ)の座をバクダードに移したということ、さらに、その頃カトリコスになったティモテオス1世の時代、すなわち8世紀後半から9世紀前半にかけて、ネストリウス派の教勢が、東方はインド、中国、チベット、チュルク人の土地にまで拡がっていたことを書いた。

 

アッバース朝ネストリウス派の関係については、こちらをご覧ください。

 

 1007年には、再びチュルク系あるいはモンゴル系の大規模なネストリウス派への改宗があり、それは以下のような経緯であった。ケレイト族の王が狩りに出かけたが、雪で迷っていたところ、どこからともなく現れた一人の男に道を教えられ、キリスト教への改宗を勧められた。そこで、ケレイト族の王は早速、ネストリウス派の商人のもとに使いをやって、司祭を要請して、約20万の国民と正式にキリスト教を受け入れた。この話が、メルヴの府主教からカトリコスへ伝えられ、それを、ヤコブ派(シリア正教会)のバル・ヘブライオスがケレイト族の奇跡的改宗話として伝えている。ケレイト族の国の首府カラコルムには、ネストリウス派の教会が建てられた。

 

 しかし、この少し前から中央アジアでは、漸次、イスラーム化が進んでおり、ソグディアナには、アッバース朝に従属したイラン系貴族によるサーマーン朝が存在した。ネストリスウス派の学問に間接的な影響を受け、アリストテレスを学んだイブン・スィーナー(アヴィケンナ)は、このサーマーン朝に仕えていた。サーマーン朝期には、ブハラの住民は政権支持者で、サマルカンドは反体制派の中心地だったらしいが、サーマーン朝に仕えたイブン・スィーナー(アヴィケンナ)は、ブハラ出身だった。サーマーン朝は、チュルク系遊牧民を軍人奴隷として雇っていたが、彼らの反乱によって自滅し、955年頃には、チュルク系軍人奴隷(マムルーク)がカズナ(現在のアフガニスタンの東部)でサーマーン朝から半独立し、カズナ朝(サーマーン朝の南部)ができた。その少し前には、アッバース朝の衰退でバグダード中央部が弱体化したのに乗じて、チュルク系のカラハン朝が躍進し、アム河(現在のウズベキスタントルクメニスタンの国境沿いを流れる)の北まで領土を拡大した。カラハン朝では、サーマーン朝とは逆に、サマルカンドが政権支持の町となったが、ブハラではカラハンの権力は時として全く承認されなかったという。955年頃に亡くなったカラハン朝のサトゥク・ボグラ・ハンは、イスラームに改宗しており、カラハン朝は最初に公式にイスラームを支持したチュルク系王朝でもあった。イスラム教徒歴史家のイブン・アスィールとイブン・ミスカワイフによれば、960年に、膨大な数のチュルク人(20万のテント)が、イスラームに改宗したと記録しており、これがカラハン朝のことだと考えられている。上述のカズナ朝も、サーマーン朝時代からイスラーム化しており、この時期、中央アジアのチュルク系がイスラーム化していたことがわかる。

 

 985年頃、現在のカザフスタンを拠点とするチュルク系のオグズ族のセルジュークがイスラームに改宗したが、彼らの子孫は1040年にカズナ朝の領地を支配し、1055年には、セルジューク朝バグダードの支配権を獲得した。

 

 987年から、カトリコス(ネストリウス派のトップ)の就任には、カリフの承認が公式に必要になっていたが、セルジューク朝になると、各教派の長がその信者の共同体の首長かつ行政上の責任を追うことになった。ネストリウス派カトリコスのサバルエシェ3世の就任は、カリフの大臣とセルジューク軍の代表の両者によって正式に承認された。ネストリウス派の管轄下にヤコブ派(シリア正教会)やカルケドン派(メルキタイ)が置かれるようになったのは、この頃である。この処置に、ヤコブ派(シリア正教会)は反目し、ネストリウス派ヤコブ派が和解するには1142年まで待たなくてはならなかった。このように、ネストリウス派と同じくシリア系であったヤコブ派(シリア正教会)とは反目することになったが、ネストリウス派は、セルジューク朝期においても、これまでの他の政権下のときと同じように、ときの政権に公認された存在となった。セルジューク朝バグダードに入った後の1093年には、カトリコスが、ゲオルゲスを中国北部の契丹(カタイ)の主教として移動させている記録があることから、契丹にもネストリウス派がいたようであるが詳しいことはわからない。契丹と日本の関係について言えば、ネストリウス派ゲオルゲスが契丹の主教になったとのとほぼ同時期の1091年、1092年に、日本人が契丹国に入っていたという。『右中記』によれば、国禁を犯して日本人僧明範契丹国に至ったらしく、『百錬抄』によれば、その僧明範に伴われて来日した契丹人もいたらしい。

 

 ここでアジアの情勢を少し振り返ってみる。8世紀半ばの中唐時代に力を伸ばした、北アジア遊牧民族を支配したチュルク系のウイグル帝国や、中央アジア遊牧民族やオアシス都市を支配していた吐蕃帝国(チベット)も、9世紀半ばの晩唐時代には崩壊したり、内乱で力を失い、唐自体も弱体化し、多くの遊牧民族が、いっせいに活動を開始するようになっていた。7世紀半ばから唐に帰属していた契丹も、9世紀末には勃興の機運に恵まれるようになり、10世紀のはじめには、耶律阿保機契丹国(遼)を建国した契丹のおおもとは、現在の内モンゴルを源とするシラ=ムレン川流域(遼河流域の支流)であった。

 

 しかし、1026年、契丹軍が甘州ウイグルへの攻撃を失敗したのに乗じて、阻卜(北モンゴリア中部のタタル)諸部族がそろって契丹に叛いた。契丹の統制力のゆるみに乗じて、ケレイト族のマルグズが、阻卜諸部の統合を遂げ、1089年には、遼もマルグズの王権を認めざるを得なくなった。マルグズに率いられたケレイトは、遼と開戦してモンゴリアにまで侵入したので、遼の辺境は大混乱に陥った。しかし、1100年に、遼軍がマルグズを捕殺したので、ケレイトの勢力も逼塞した。モンゴル部族がケレイトのもとで発展を始めたのは、この頃のことであった

 

 契丹国(遼)が滅亡する前年の1124年に、耶律阿保機の孫である耶律大石(徳宗)が、北モンゴリア、キルギス地方を経ながら西走し、1132年に現在のカザフスタン東部チュー河畔のべラサグンカラ=キタイ(黒契丹)=西遼)を建国した。この辺りは、かつて中央アジアのソグディアを故地としたソグド人商人の全盛期のソグド人植民都市でもあったセミレチエと重なる。カラ=キタイ(黒契丹)=西遼)の支配部族となった契丹人はごく少数だったので、カラ=キタイ(黒契丹)=西遼)は、ウイグルイスラム系の商人と結合して、商業貿易によって収入を確保しなければならなかった。それで、カラ=キタイ(黒契丹)=西遼)契丹人は、中国語や契丹語を公用語として用いつつも、被征服民族の間でのチュルク語の使用は容認した。契丹人の宗教はシャーマニズムであったが、概して征服した地方の宗教にも寛容な態度を示したという。

  

 12世紀には、ネストリウス派は、このカラ=キタイ(黒契丹)=西遼)の支援と保護のもと、新たに一般にひろがったという。1141年には、セルジューク朝カラ=キタイ(=黒契丹)=西遼)に敗れているから、ネストリウス派が、セルジューク朝の保護から離れて、カラ=キタイ(=黒契丹)=西遼)の保護を得るようになったのは、この頃かもしれない。1180年頃には、ネストリウス派総主教エリーアス三世が、カシュガルに新たな府主教区を設けたが、その権力は、セミレチエ(現在のカザフスタン南部)にまで及んでいたという。

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(関連地図)

 こうしてみてくると、1007年にネストリウス派に改宗したケレイト族は、西から東へと漸次イスラーム化する動きと、東から西に伸びようとする契丹国(遼)に挟まれた存在だったといえそうだ。 カラ=キタイ(=黒契丹)西遼)で、新たにネストリウス派が拡がったのは、契丹人の宗教への柔軟な対応と合わせて、この辺りが、そもそもソグド人商人の全盛期にネストリウス派の多い土地だったことも関係するかもしれない。

 

 

 ソグディアナ、ソグド人とは?と思われた方や、中央アジアにおけるネストリウス派について、ご興味がある方はこちらをご覧ください。

 

  7~8世紀の唐の状況が気になった方は、こちらをご覧ください。

 

 

(以上、☆『キリスト教史Ⅲ』森安達也著、山川出版社、1978年、p、244~248、☆『シルクロードの宗教』R.C.フォルツ著、常塚聴訳、教文館、2003年、p、108~111、161~166、☆『シルクロード全史(上)』ピーター・フランコパン著、須川綾子訳、河出書房新社、2020年、p、164~175、☆『トルキスタン文化史』1、バルトリド著、小松久男監訳、東洋文庫、2011年、p、165~206、☆『アーリア人』青木健著、講談社メチエ、2009年、p、169~170、『契丹国 遊牧の民キタイの王朝(新装版)』島田正郎著、東方書店、2018年)