ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

7~8世紀 中国のネストリウス派(景教)

 

 5~8世紀に中央アジアに広がったネストリウス派は、7世紀には中国にまで及ぶようになっていた。今回は、中国でのネストリウス派(景教)の動きを見ていきたい。

 

 中国のネストリウス派あるいは景教について知るには、「大秦景教流行中国碑」(以下、景教碑とする)が重要だ。この碑が、かつて偽物だと疑われた時期があったが今は本物だということで落ち着いているということと、この碑には難解な漢文とシリア語が記されているということは、このブログの初期に触れた。この景教碑は2トンにも及ぶ石碑で、漢文がメイン、シリア語が少々の碑文で、景教に関係する司教や主教の名簿も記されているが、シリア語の大部分はこの名簿の部分にあたるらしい。内容は、景教の教えと、中国でのこれまでの景教の歩みと、この景教碑に出資した人物であるイズブジット(伊斯)の徳行について記されている。(現在、西安碑林博物館に保管されているこの碑の拓本は、早稲田大学図書館のオンラインで見ることができる。)

 

  この景教碑に記された内容に、唐代の勅令などと合わせて考察をすすめた先達の研究家たちの記述によれば、唐代のネストリウス派(景教)の動きは、だいたい下記のようになるようだ。

 

  

635年 (貞観9年)ネストリウス派の阿羅本(ペルシア人?)が、長安に至り、太宗は唐の宰相房玄齢にその出迎えをさせた。

 

638年 (貞観12年)太宗の許可を正式に得て、長安の義寧坊にネストリウス派(景教)の教会が建立され、そこに皇帝の肖像が与えられた。公認の僧21名を擁した。

 

649~683年 高宗景教を保護。諸州に景教の寺を置いた。

 

698~700年 則天武后時代には、仏教側から攻撃を受けた。

 

712~756年 玄宗のときに、カトリコス(ネストリウス派のトップ)によって中国に派遣された景教会士アブラハム(羅含)やガブリエル(及烈)などの努力により、再び景教の勢力が持ち直した。

 

742年 (天宝初年)玄宗が、大将軍高力士を派遣して、景教寺院に五帝の肖像を贈り、これを掲げさせ、絹百疋を賜った。

 

744年 (天宝三年)大秦国の大徳僧のゲオルゲス(佶和)と17名の景教僧が来唐し、興慶宮で功徳を収めた。

 

745年 「波斯寺」と呼ばれていた景教寺院が、詔によって「大秦寺」と改称された。

 

757~762年 粛宗の時代、靈武(現在の寧夏回族自治区)など五郡に、景教の寺院を建立した。

 

736~779年 代宗の時代もネストリウス派に好意的であった。

 

781年 得宗の時代、ネストリウス派(景教)の僧であり、かつ唐で光禄大夫、朔方副節度使、試殿中監に出世したイズブジッド(伊斯)の出資によって景教の教えとこれまでの中国での景教の歩みとイズブジッド(伊斯)の徳行を記した景教碑が建立された。碑文の起草者は、ネストリウス派(景教)の大秦寺の僧アダム(景浄)(イズブジッド(伊斯)は、トハリスタン(トカラ=バクトリアの地)のバルフ(バルク)と関係するようだが、よくわからない。ネストリウス派の「僧」が意味するところも正確にはわからない。その解明には、いずれもシリア語の正確な解読が必要なようだ。)

   

 次に、こうした唐代のネストリウス派(景教)の動きの背景を見てみてみよう。ネストリウス派の阿羅本が長安に入る五年前には、東突厥(突厥第一可汗)が滅亡し、唐の支配力がモンゴリアにまで及ぶようになっていた。太宗に続いて、高宗もネストリウス派(景教)を保護したようだが、この時代に、唐が高句麗を滅ぼし唐のユーラシア東半の支配がゆるぎないものになり、各国からの使節が盛んに唐に派遣されるようになった。またこの高宗の時期、サーサーン朝が滅び、ペルシア方面はアラブ軍の地方分権の時代に入った。日本では、663年に白村江の戦いが起こった。こうした高宗期の末期には、モンゴリアにいた突厥が唐の羈縻支配から抜けて、第二可汗国として独立を図り、則天武后期の唐は突厥との緊張関係に追われた。西方では、イスラームウマイヤ朝の軍人クタイバが706年にトハリスタン(トカラ、バクトリアの地)を、712年にはサマルカンドを制圧していた。玄宗期になると、突厥が唐と友好路線をとるようになり、突厥と唐の緊張関係は緩んだ。ネストリウス派(景教)は、玄宗期に息を吹き返し、玄宗からネストリウス派(景教)寺院に五帝の肖像や絹を賜わったが、その約10年前の732年には、ネストリウス派(景教)と同じ外来の宗教であるマニ教の中国人への布教が詔勅によって禁止されていた(在留の西域人については不問)。781年に景教碑が建立される前の751年には、タラス河畔(今のキルギス)の戦いで、イスラームアッバース朝(大食)と唐が一戦を交えたが、唐は、755~763年のチュルク・ソグド人の安禄山らによる安史の乱によって、国内の統制が崩れ始め、西域経営どころではなくなった。ちなみに、五郡に景教の寺院が建立されたのは、この安氏の乱の最中であり、のちに景教碑に出資することになるイズブジッド(伊斯)は、この乱の鎮圧に最も功のあった郭子儀の腹心となって働いていた。安史の乱の10年ほど前に突厥第二可汗国が崩壊し、ウイグルの可汗国が勃興していたが、このウイグル安史の乱の鎮圧に動き、乱の後、躍進することになるが(ソグド人がウイグルに持ち込んだマニ教ウイグルの国教になるのはこの数十年後である。)、結果、南で力を蓄えていたチベットとの間に確執が芽生えてしまい、763年には、一時的にチベット長安を占領し、傀儡政権を樹立する一大事件が起こった。西方では、ソグディアナが、750年にはじまったイスラームアッバース朝(大食)に組み込まれ、諸教混淆の中、ゆっくりイスラム化していく過程にあったが、ネストリウス派はこのアッバース朝(大食)を背景に最盛期を迎えんとする時期であった。(イスラームネストリウス派の関係については次回もう少し書きたい)

 

 こうしてみてくると、ネストリウス派(景教)は、唐内外の政治的な状況に気を配りつつ、唐内においては皇帝に従う態度を示し、自派を守ったり広めたりしてきたように見える。景教碑が建立された時代は、西方においてはイスラーム勢力の東進により混乱をきたしながら、ゆっくりとイスラーム化が進み、東方においては安氏の乱によって唐内が乱れ、ウイグルチベットが躍進するという混乱の時代で、西域出身者が多かったであろう中国のネストリウス派(景教)界にも難しい時代だったのではないだろうか。そんな中、イズブジッド(伊斯)、アダム(景浄)といった中国のネストリウス教徒(景教徒)たちは、碑を建てることで、改めて中国皇帝への恭順の姿勢を示し、ネストリウス派(景教)を記念したように見える。

 

 しかし、845年に、武宗道教以外の一切の宗教を禁じる詔を出すと、仏教をはじめマニ教ゾロアスター教といった外来の宗教が禁止されるようになり、同じくその対象となったネストリウス派(景教)も、教勢が急速に衰えた。

 

 (以上、☆『大秦景教流行中国碑について』桑原隲蔵kindle版、2012年、☆『キリスト教史Ⅲ』森安達也著、山川出版社、1978年、p、235~243、☆森安孝夫「景教」『オリエント史講座 第3巻』学生社、S57年、☆『シルクロード唐帝国』森安孝夫著、講談社学術文庫、2016年 ☆『ソグド商人の歴史』E・ドゥ・ラ・ヴェシエール著、影山悦子訳、岩波書店、2019年、☆『唐代の国際関係』石見清裕著、山川出版社、2017年、p、71~74参照)

 

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