ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

『中央アジア・蒙古旅行記』とネストリウス派①カルピニの旅行記(1245~1247年)から

 

 前回、チンギス・カンネストリウス派にそれなりの関係があったことや、当時のヨーロッパではプレスター・ジョン(東方のキリスト教徒の国王)の伝説が広がっていたこと、東へ西へと征服戦争をしかけるモンゴル軍がヨーロッパにとっても脅威であったこと、それゆえ、ヨーロッパからモンゴルの状況を偵察するべく、次々と宣教師が東方に派遣されたこと、またそうした宣教師たちが旅行記を残していることを書いた。↓

 

 そこで、今回はそうした宣教師たちの旅行記の中から、イタリアのジョン・ド・プラノ・カルピニの旅行記を読みながら、当時のモンゴル内のネストリウス派についてみていきたい。

 

 その前に、まずは、カルピニという人物について見ておこう。カルピニは、1182年頃、イタリアに生まれ、同年代のアッシジのフランチェスコが創立した無所有・清貧を旨とする托鉢修道会であるフランシスコ会にはやくから入った修道士であった。1222年にはザクセンの新しい管区の修道院長に選ばれ、1228年にはドイツの管区長となったが、1230年には、スペインに管区長として渡り、1233年には、ザクセンに帰って管区長になった。東方へ旅立つ頃(1245年4月)には、ケルンの管区長であり、60歳を越えていたという。今より、はるかに交通の便も生活環境も厳しい時代に、60歳を越えてから、見知らぬ東方へ2年以上に渡る長旅をしたのかと思うと、そのバイタリティーに驚いてしまう。

 

 一方、カルピニが旅立った頃のモンゴルでは、チンギス・カンの時代も、その次のオゴデイ・カンの時代も終わり、オゴデイの跡継ぎを誰にするかでもめていた。オゴデイは、生前、後継者として、孫のシレムンとトゥルイの長子モンケとを指名していたのだが、オゴデイの死後、監国(摂政)していたオゴデイの皇后トゥラキナがわが子のグユクを推していたからである。

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カルピニが訪れた頃のモンゴル(『中央アジア・蒙古旅行記』(講談社学術文庫)から引用、追記)

 こうした状況の中、カルピニは、モンゴルの偵察と、モンゴルのキリスト教国への攻撃阻止と、モンゴル人への伝道をも目論む教皇インノケンチウス4世の信任状を手に、リヨンを発ち、ポーランドキエフを通って、キプチャク汗国のバトゥの本営(オルダ)に踏み入れ、バトゥに謁見した。その後、モンゴル皇帝の本拠地を目指し、さらに、ウラル川の東方、アラル海北方の草原を横切り、シル・ダリア、バルハシ湖の南を通って、アラ・クル(湖)のほとりに出、さらに数週間の旅を続け、旅をはじめて1年以上たった1246年7月22日、カルピニは、ついに、オゴデイの後継者となったグユクの盛大な即位式にめぐり合わせることになった。(しかし、バトゥは、オゴデイが指名したモンケを支持していたから、グユクを後継ぎのカンと決める1246年のクリルタイに出席せず、モンケを支持し続けていた。)教皇からの書簡をグユクに渡し、グユクからは教皇宛の手紙を受け取ったカルピニは、そこで4か月ほど滞在した後、帰途につき、途中、バトゥのもとにも立ち寄り、教皇への返書を書くように言ったが、バトゥは教皇宛のものは皇帝(グユク)が書いたから、自分は何も伝える意志はないといったので、バトゥから護照(旅券)の手紙をもらって、暇を告げ、1247年6月にキエフに到着した。その後、ポーランドボヘミアを通って、リヨンの教皇のもとに帰り着いた。

 

 このような長丁場に渡ったカルピニの旅の報告書には、「タルタル人」の土地、地理、生活、宗教、性質、帝国などがまとめられている。モンゴル族タタール族は厳密には一緒ではないようで、それはカルピニもわかっていたようだが、「タルタル人」はこれらモンゴル系の人々の総称として使われているようだ。報告書の内容は、現代の知識からは間違った地理情報などもあり、解説と合わせて読むのが必須である。またこの報告書には、タルタル人が征服した国々や諸族の膨大なリストがでてきて、解説を読んでもすべてを理解するのはままならないが、このリストを読むだけで、ユーラシアにいかにたくさんの国々や諸族がいたのかということと、それらを征服した「タルタル人」の勢力の凄さを実感させられる。征服先のひとつにネストリウス教徒がいたが、これは、解説によればイラク地方のネストリウス派だという。また、報告書にはウイグルネストリウス派の信者だとも書かれていて驚く。ウイグルでは、8世紀の後半にマニ教が国教になっていたが、↓↓

解説によれば、この頃のウイグルには、仏教徒ネストリウス派の信者もいたという。ウイグルネストリウス派教徒といえば、カルピニがその即位式に居合わせることになったグユク・カンの首席書記のチンガイ(鎮海)は、ウイグル人でネストリウス教徒だった。また、全帝国の行政長官カダクは、何人かはわからないが、やはりネストリウス教徒であった病気がちだったグユク・カンは、このネストリウス教徒だったチンガイ(鎮海)とカダクに政治を任せていたというから、グユク・カン下のネストリウス派の勢力は小さくなかっただろう。グユク・カン下のキリスト教徒たちは、グユク・カンがもう少しでキリスト教徒になりそうだと噂をしていたようだが、実際、グユク・カンは、ネストリウス派に限らずキリスト教を保護し、小アジア、シリア、バグダード、ロシアなどからは多くの僧侶が来会し、非常な力を持ち、グユクの侍医もキリスト教徒だったという。ペルシアの歴史家ラシードによると、グユクの治世中は、イスラム教徒は軽視されていたという。グユクは病弱だったから、西方のキリスト教国の医術に頼りたかったのだろうか。またタルタル語の文字は、ウイグル文字だったから、ウイグル人ネストリウス教徒のチンガイ(鎮海)を、首席書記として重用したのだろうか。

 

(以上、☆『中央アジア・蒙古旅行記』カルピニ/ルブルク 護雅夫訳、講談社学術文庫、2016年、☆「カルピニとルブルク」『山の文学全集Ⅺ 中央アジア探検史』、深田久弥著、朝日新聞社、1974年参照)