ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

ネストリウス派以前にペルシア方面に入ったキリスト教について

 

 前回、ネストリウス派教会が成立し、サーサーン朝と関係を深めた経緯を書いたが、パルティアやサーサーン朝の地には、ネストリウス派が入る以前、すでに他のキリスト教が存在した。今回は、そうしたキリスト教について記したい。

 

 114年には、キリスト教がパルティアに広まっていて、224年にサーサーン朝がパルティアを征服したが、225年にペルシアが支配する地域の全体で20の司教区があった。

 

 ミンガナ博士が引用する教会史家ソゾーメンの言によれば、パルティアやサーサーン朝の従属王国であったアディアバネ王国内の大ザーブ河と小ザーブ河の間の住民の大多数がキリスト教徒であり、アディアバネやペルシアのキリスト教徒の多くは、ペルシア生まれで、その多くは、元ゾロアスター教に属し、のちにキリスト教に帰依した両親から生まれた人たちであり、そうしたキリスト教信奉者の医者仲間の間では、パフラヴィー語(中世ペルシア語)が使われていたという。

 

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 メルヴ(現トルクメニスタン)の墓地に古いキリスト教徒が埋葬されているそうだが、その墓から判断すると、3世紀までにキリスト教の宣教師がマルギアナ(現トルクメニスタン)に姿を現していたと考えられる。キリスト教の伝統によれば、このシャープール2世のとき、シリア出身のバルシャバが、シャープール2世の姉妹と妃のシランをキリスト教に改宗させたが、妃をバルシャバの影響から離そうとしたシャープール2世は、バルシャバをメルヴ(トルクメニスタン)に送り、バルシャバはメルヴの最初の主教になったといわれている。宗教関係文書の紀元334年の項には、宗教会議にメルヴからの主教が参加したことが記載されていて、この事実は、この時期にすでにメルヴに相当大きなキリスト教の教区があったことを示している。

  

 こうしたキリスト教のひろがりの背景を見てみると、宗教を特に重要な政治上の問題だとは みなしていなかったパルティアと違って、サーサーン朝とキリスト教の関係は、緊張をはらんだものであった。というのも、サーサーン朝は常にローマ帝国と争っており、ローマと近い関係と思われたキリスト教徒は、サーサーン朝から、しばしローマのスパイではないかと疑われ、迫害されたからである。そうした迫害は、とくにコンスタンティヌス1世(サーサーン朝側はシャープール2世時代)がキリスト教を公認し、晩年、自身がキリスト教に改宗して亡くなって以降、激しくなった。サーサーン朝の背後には、ローマのキリスト教に対抗して、ゾロアスター教の国教化を目論む古くからのゾロアスター教の神官たち(マギ)がいた。

 

 しかし、気候変動などで、ステップ地方から、フン族が襲来し、それに影響された民族たちが南下し、ローマやペルシアを襲うようになると、ローマとペルシアは彼らに対して共同戦線を張るようになった。さらに、ローマが弱体化すると、ペルシアにおけるキリスト教への緊張感も薄れた。そこで、410年、ヤズドギルド1世の呼びかけで、ペルシアでキリスト教が公認され、教えを統一するための会議が開かれた。ここに教会内部での聖職者同士の権力争いも合わさって、424年の教会会議において、東方の司教たちの教会が管理上西方の教会から独立したことを宣言した。しかし、キリスト教がサーサーン朝の要人の間で広がるようになってくると、キリスト教は再びゾロアスター教のマギたちや旧来の貴族たちの反感を買うようになり、ヤズドギルド2世(紀元438ー457)のときに、キリスト教への迫害が再び激しくなった。この時期にも、キリスト教徒のサーサーン朝から中央アジアへの移住の波があったという。

 

 ネストリウス派は、サーサーン朝のこうした土壌の中に入っていったのだが、ローマから迫害された存在だったこともあり、サーサーン朝で受け入れられ公認され、さらにネストリウス派教会自体の伝道熱もあって、東方に拡がっていった。

 

(☆『景教東漸史』J.スチュアート著、熱田俊貞、賀川豊彦訳、原書房、S54年、p、12~67、☆『考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化』E・ルトヴェラゼ著、加藤九訳、平凡社、2011年、p、160~163、☆『アーリア人』青木健著、講談社メチエ、2009年、p、155、☆『シルクロードの宗教』R.C.フォルツ著、常塚聴訳、教文館、2003年、p、102~106、☆『シルクロード全史(上)』ピーター・フランコパン著、須川綾子訳、河出書房新社、2020年、p、57~88参照)