ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

ネストリウス派教会の成立とサーサーン朝ペルシア

 

 今回は、ネストリウス派の教会が成立するまでの流れをたどってみたい。

 

 初期キリスト教会は、大きくなるにつれて、聖職者同士の対立が深刻化した。ネストリウス派の成立もその流れの中から生まれたものである。

 

 当時のキリスト教界の四大中心は、ローマ、コンスタンチノープル、アンティオキア、アレキサンドリアであったが、セム的現実主義の立場にあるアンティオキア学派プラトン哲学を基盤にし ヘレニズム的理想主義の傾向が強かったアレキサンドリア学派の神学的な争いは、ネストリウス以前から、新興のコンスタンティノープルを舞台にすでに存在していた。

 

428年に、アンティオキア学派を背景にしたネストリウスがコンスタンティノープルの総主教になり、アンティオキア学派の神学を公にすると(マリアをテオトコス(生神女)と呼ぶことを反対した)アレクサンドリアの総主教であったキュリロスが反発した。

 

431年のエフェソス公会議アレクサンドリア学派のキュリロスが、ネストリウスを政治工作により追い落とすと、ネストリウスはリビアに追放され、エジプトで亡くなった。元々アンティオキア学派が支配的だったシリアや東方では、アレクサンドリアのキュリロスの権威を認めなかったが、ローマと結んだアレクサンドリア派が打ち勝ち、433年にアンティオキアで開かれた主教会議で、アンティオキアとアレクサンドリアの完全な和解が成立した。

 

とはいえ、この措置には、小アジアやシリア各地の教会が憤激し、特にアンティオキア学派の伝統を堅持するシリア教会の一部が強い反抗の姿勢を見せた。この一派は、ネストリウスの主教就任以前にすでにアンティオキア主教の管轄を離れ、エデッサを中心に事実上の独立を達成していた。これが東シリア教会である。

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この教会は、5世紀中葉よりネストリウス的異端として、ローマ帝国政府の弾圧を受け、隣接したペルシア領に避難し、二シビス(現トルコ領のヌサイビン)を中心に勢力を築いた。

 

当時のペルシア(サーサーン朝)には、すでに別のキリスト教も存在していたが、シャー・ペーローズ(在位459-484)の治下、東シリア教会が公式に認められ、他のキリスト教の勢力は著しく弱まった。常にローマ(ビザンツ)と敵対するサーサーン朝は、ローマ(ビザンツ)から追われた東シリア教会を厚遇したのだ。

 

484年には、グンデシャープール(現シャーハーバード、イラン南西部)で、ペルシアの主教会議が行われ、この席で公式に東シリア教会以外の、ローマ帝国内のキリスト教がすべて弾劾され、ここにネストリウス派の教会が成立したと考えられている。

 

以上、ネストリウス派が成立するまでを辿り、ネストリス派がペルシア方面と関係が強い背景が見えてきた。

 

(☆『景教東漸史』J.スチュアート著、熱田俊貞、賀川豊彦訳、森安達也解題、原書房、S54年、解題部分、☆村岡崇光著「シリア教会」『オリエント史講座』学生社、S57年、p、183~191、☆『キリスト教史Ⅲ』森安達也著、山川出版社、1978年、p、16~29、☆『考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化』E・ルトヴェラゼ著、加藤九訳、平凡社、2011年、p、160~161、☆『シルクロードの宗教』R.C.フォルツ著、常塚聴訳、教文館、2003年、p、99~101、☆『シルクロード全史(上)』ピーター・フランコパン著、須川綾子訳、河出書房新社、2020年、p、73~79参照)