ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

エデッサ、オスロエネ王国とシリア語のひろがり

 

 前回、シリア語は、エデッサ(ウルファ)を首都とするオスロエネ王国と縁が深いようだと書いた。では、エデッサとはどういう場所だったのだろう?オスロエネ王国とは??

 

1、エデッサとは

 ここでいうエデッサとはギリシアマケドニアにあるエデッサではなく、トルコ南東部にあった場所のことである。現在はシャンルウルファという場所だが、ウルファは、その通称である。ここにギリシア勢力が伸長したとき、マケドニアにあるエデッサにちなんで、エデッサというギリシア名がついたとの由。この地は、アナトリアから北部メソポタミアへ通ずる幹線道路が通過する要害をおさえる戦略的要衡として重要視され、それがゆえ、古来相対立する勢力の矢面に立たれることが何度もあったようだ。この地理的条件は東西文化の接触地点ということでもあり、紀元1、2世紀には、ギリシア文化だけでなく、パルティア(アルサケス朝、アルシャク朝、安息)の影響にも さらされていた。

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エデッサ(シャンルウルファ)の位置

 

2、オスロエネ王国とは

 オスロエネ王国は、紀元前2世紀末の頃、エデッサを中心に興ったがパルティア(安息)とローマという強国に挟まれており、3世紀にローマ帝国に吸収された。(オスロエネ王国のはじまりと終わりの細かい年代は、諸説あるようで、よくわからない)

 

しかし、エデッサの文字はシリア文字として生き残った。生き残ったシリア文字は、この地域の伝統的な多神教と、ネストリウス派を含めたシリア系教会で使われていったが、シリア語は、その成立期から、すでに東地中海地域で支配的な言語であるギリシア語の影響下にあった。シリア語話者にとって、ギリシア語はアンビヴァレントな感情を起こさせるものでもあったようだ。しかし、ギリシア語話者がシリア語話者の支配者でなくなった7世紀以降、シリア語話者は、アラブ人にギリシアの学問を教える立場になり、新たな支配者に重宝された。また、トルファンでは、9~10世紀ごろに書き写されたと推測される数多くのシリア語文書や、おもにシリア文字で記されたソグド語およびチュルク語(古ウイグル語)のキリスト教文書、それに若干数の中世ペルシア語(パフラヴィー語)、近世ペルシア語キリスト教文書が見つかっている。ソグド語(ソグドについては追々書く)等の文書はほぼすべてシリア語からの翻訳であった。それ以降も、ネストリウス派の信徒や聖職者は、中央アジア以東の地域で、しばしば医者として知られ、重用されたようである。中央アジアやモンゴルといった東方では、ネストリウス派の聖職者や信徒のもつ西域諸言語や天文学、医学の知識が買われていたようである。

 

(以上、☆村岡崇光「シリア教会」『オリエント史講座3』、学生社、S57年、☆『世界の文字の物語』p、45、古代オリエント博物館・大阪府弥生文化博物館カタログ、2016年、☆高橋英海「ユーラシアの知の伝達におけるシリア語の役割」『知の継承と展開』、明治書院、H26年 参照)