映画『敦煌』を久しぶりに見て
ひさしぶりに、映画『敦煌』をみた。1988年の映画である。子どもの頃にはじめてみたときは、西夏という勢いのある国があったのだな、砂漠の生活は過酷そうだななどと思ったが、いつの時代の話なのかは、あまりわからないでいた。
そこで、今回、映画の原作になった井上靖の『敦煌』の古い文庫本を引っ張り出して、その解説を読んでみたら、1030~1052年の間で諸説あるけれど、とりあえず11世紀半ば頃の話だということがわかった。前回のブログで、「10~12世紀 ケレイト族、契丹とネストリウス派」という記事を書いたのだが、↓
この映画あるいは小説『敦煌』は、前回の記事と時代が重なっているということになる。そこで、『敦煌』の中身を再び見てみたい。主人公は、宋の進士の試験を受けに僧の都の開封に出るのだが、そこで出会った西夏の若い女の逞しい姿と言葉に惹かれる。紆余曲折の末、この主人公は、西夏の外人部隊である漢人部隊の一員になる。しかし、敦煌に入ったこの漢人部隊は、西夏に反旗を翻し、敦煌は、戦火に見舞われる。生きる意味を見出しえなかった主人公だが、この戦火の中、貴重な仏教の経典を莫高窟千仏洞の蔵経窟に隠すという行為に身を投げる。映画では、この経典を隠すシーンが、映画のハイライトの一つとなっており、大変印象的に描かれている。しかし、現在の研究では、実際は映画のようにドラマチックなものではなく、経典をはじめ不要な文献をまとめて、当時すでに使われなくなっていた窟に収蔵していたとみるらしい。ただし、11世紀の前半頃に、この蔵経洞が封鎖され、11世紀中頃、西夏の敦煌支配が本格的に開始されたのは、事実のようだ。
さて、気になるのは、前回のブログに登場した契丹と西夏の関係である。『契丹国 遊牧の民キタイの王朝(新装版)』の年譜によれば、1053年、契丹と西夏が和し、西夏が契丹に臣事したという。西夏が敦煌にあった帰義軍政権を滅ぼした時期は、1030年頃あるいは1037年、あるいは1049~52年と諸説あるようだが、いずれにせよ、西夏が契丹と和し、契丹に臣事したのは、西夏が敦煌を支配してまもなくだったということは確かそうである。
また、映画には出てこないが、敦煌莫高窟の北窟からは、宋代のネストリウス派の十字架が発見されているらしい。この十字架の持ち主は、どういう人物だったのだろう。この辺りのことは、今後ゆっくり考えていきたい。
(参考資料
②『西域文書からみた中国史』關尾史郎著、山川出版社、2015年
③『契丹国 遊牧の民キタイの王朝[新装版]』島田正郎著、東方書店、2018年
④『シルクロード特別企画展 素心伝心』2017年)