ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

大秦景教流行中国碑の発見と日本

 1620年代、すなわち中国の明の時代、西安の辺りで、大秦景教流行中国碑(以下、景教碑)が発見された。このとき、すでにイエズス会の明での初期伝道に携わったマテオ・リッチ(中国名 利瑪竇)は亡くなっており、明のキリスト教徒にとっては、迫害期にあたっていた。在明のイエズス会の宣教師たちは、杭州に避難したり、マカオにいったん戻って、再び明に入ったりとたびたび移動を繰り返していたが、そんな中でも、リッチの影響でキリスト教徒になった中国人の李之藻は、景教碑の発見から程なくその拓本を手に入れ、明のイエズス会士たちも、景教碑の発見を知るところとなったということを、前回の記事で書いた。↓↓

今回は、この景教碑発見の報が、すぐに日本に入ったかどうかを考えてみたい。

 

 イエズス会の宣教師たちは、マカオから日本あるいは中国に派遣されることが多かったようだから、日本にいるイエズス会士と中国にいるイエズス会士が顔見知りの場合もあっただろう。マテオ・リッチの時代、天正遣欧使節団の帰国に付き添ったイエズス会士が中国でリッチの同僚になっていたし、リッチは日本にいるイエズス会士にもたびたび書簡を送ったりしていたから、日本と中国の情報は双方で行き交っていたと思われる。よって、景教碑発見の報もわりとすぐに日本に入ったかもしれない。しかし、リッチの時期には、イエズス会の日本管区に所属していた中国の宣教区が、1619年には独立していたから、景教碑発見時には、日本・中国間の情報網の在り方は、リッチの時代とは変わっていたかもしれない。また、この時期は、中国だけでなく、日本でも迫害が激しい時代にあたっており、1614年には、日本にいた宣教師がマカオへ追放されていたし、それでも日本に潜伏していた宣教師たちは、のちに殉教したりした。たとえば、リッチと同じくコレジヨロマーノ(現ローマ大学)でクラヴィウスに数学を学び、1612年に長崎で日本初の月蝕の科学的観測をしたスピノラは、景教碑が発見される頃の1622年の元和の大殉教で亡くなった。

 

 このように、明でも日本でもキリスト教徒が慌ただしく厳しい状況にあった中、果たして景教碑発見の報は、日本にすぐに伝わっただろうか?中国で古いキリスト教の跡が見つかったというニュースは、迫害に苦しむ日本のキリスト教徒を励ますものとして、即座に伝えられたかもしれない。が、これまで書いてきたように、中国の宣教区が日本管区からすでに独立していたし、迫害という混乱の状況の中であったことから、情報の伝達にはいくらかのタイムラグがあったかもしれない。

 

 ところで、この時代、日本からマカオに移り、その後、日本に戻ろうと試みたが叶わず、結局、マカオで人生を終えたジョアン・ロドリゲス(1559~1633、中国名 陸若漢)という宣教師がいる。当時、同名のイエズス会士がもう一人いたようだが、ここでいうロドリゲスとは、通訳として知られたため「ロドリゲス通事」と呼ばれたロドリゲスのことを指す。『日本大文典』のロドリゲスだといえば、日本語教育に詳しい方などは、あのロドリゲスかと思われるかもしれない。このロドリゲスは、マカオに移動後、たびたびマカオから明に渡っており、1625~1626年頃には、発見後間もない景教碑を見に現地に行っていたようだ。このロドリゲスから、日本に書簡などで景教碑発見の話も入っただろうか??とりあえず、ロドリゲスが、イエズス会総会長や、ローマのイエズス会本部のポルトガルの補佐員マスカレーニャスに、景教碑の調査研究に着手したことを報告していたのは、彼の書簡から確かなようであるが。

 

 

(以上、①『大秦景教流行中國碑に就いて』桑原隲蔵著、底本「桑原隲藏全集  第一 卷  東洋史説苑」 岩波書店 青空文庫. Kindle 版.1938年初版、②『イエズス会と中国知識人』岡本さえ著、山川出版社、2016年、③『大航海時代叢書 第1期9 ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 上』岩波書店、1967年、④『大航海時代叢書 第1期10 ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 下』岩波書店、1970年参照。)