ネストリウス派(東シリア教会)をたずねて

シルクロードにおけるキリスト教(おもにネストリウス派)の足取りを、関連書籍を読みながら たどります

『中央アジア・蒙古旅行記』とネストリウス派②ー1 ルブルクの旅行記(1253~1255年)

 

 これまで、チンギス・カンネストリウス派はそれなりの関係があったことや、当時の世界情勢など様々な要因から、ヨーロッパから宣教師たちが次々にモンゴルへ派遣されたことなどを書いた。↓

 そして、前回はそうして派遣された宣教師の一人であるカルピニの旅行記とそこに書かれているネストリウス派について確認し、ウイグルネストリウス派がモンゴル内で書記官として力を持っていることなどを書いた。↓

 今回は、カルピニの帰国後、約6年後に、モンゴルに渡ったルブルク旅行記を見ていきたい。

 

 ところで、カルピニとルブルクの派遣の間にも、2回、宣教師が派遣されていたが、その結果はあまり芳しいものではなかった。遠回りになるが、まずは、失敗に終わったこの2回の派遣について簡単に見ていきたい。というのも、このいきさつを押さえないと、ルブルクの本文の内容が理解できないからである。

 

 カルピニ後の一回目の修道士のモンゴルへの派遣は、カルピニの派遣と同じく、教皇インノケンチウス4世によるもので、1247年のことであった。この時の使節は、カルピニのフランシスコ会と同じく托鉢修道会であったドミニコ会のアンセルムとその一行である。この一行はモンゴルで屈辱を受け、また一行がモンゴル式の挨拶に従わなかったこともあって、失敗に終わった。カルピニがモンゴル滞在中、その即位式に立ち会うことになったグユク・カンは、このアンセルム一行が教皇のもとにたどり着いた1250年には、亡くなって2年経っていた。

 

 もう一つの失敗に終わった派遣はフランス王ルイ9世によるものであった。カルピニがヨーロッパに戻ったころ、イスラム教徒に関する十字軍が計画されつつあり、フランス王ルイ9世は、1248年にキプロス島に上陸したが、そこに、モンゴル軍総司令官イルチカダイからの手紙が、使節ダヴィによって、もたらされた。そこには、聖地回復のためのイスラム教徒との戦いにモンゴル軍が援助する旨や、モンゴルに教皇の名前が知れ渡っていること、カンの母親がキリスト信者であること、その三年前にカン自身(このカンは、年代的にグユク・カンを指すだろう)やその他のモンゴル大諸侯たちがキリスト信者に回心したこと、この使節を送ったイルチカダイはそれ以前に洗礼を受けていることなどが書かれていた。これに喜んだルイ9世は、1249年に、ドミニコ会のアンドルー修道士一行をモンゴルに派遣した。しかし、彼らがバルハシ湖の南東に到着すると、グユク・カンはすでに亡くなっていて、その代わりにグユクの皇后オグル・ガイミシが監国しており、彼女と謁見することになった。この謁見は、モンゴル内に彼女の権力を見せつける目的に利用されて終わり、このオグル・ガイミシのもとから帰った使節がもたらした返書の内容もルイ9世を失望させるものだった。しかし、南東ロシアにいるモンゴル人首長サルタク~カルピニが、モンゴルに渡った時に最初に世話になったバトゥの子~がキリスト信者であるという情報が入った。そこで、ルイ9世は、先に遣わしたアンドルーより宗教的・伝道的性格の強い使節をモンゴルに送ることにした。そこで、白羽の矢が立ったのが今回の主役ルブルクだったのである。

 

 ルブルクの生まれは、フランダースで1215~30年頃といわれ、かつてモンゴルに派遣されたカルピニと同じフランシスコ会の修道士であった。またカルピニが、ルイ9世に会った際、その宮廷にルブルクがおり、カルピニの旅行団の話を聞き、自分もモンゴルに行こうと思うようになったらしい。またルイ9世に従って、エジプトへの十字軍にも参加していたようである。

 

 ルブルクは、ルイ9世の宸翰を、パレスチナのアッコでアラビア語とシリア語に翻訳させ、海路でコンスタンチノープルに渡り、そこで一年ほど色々な情報を得、1253年5月7日にコンスタンティノープルを出帆し、クリミア半島のスダク(ソルダイア)に向かい、そこからモンゴルに入っていった。

 

 無事、サルタクのもとを訪れたルブルク一行は、サルタクにバトゥの本営に行くように命じられた。バトゥのもとに着くと、次は、バトゥの指示で、グユクの後に即位したモンケ・カンのいるカラコルムを目指すことになった。バトゥが、カンのもとに宣教師たちを行かせるのは、カルピニのときと同じである。ルブルクは、正式な使節ではなく、あくまで私的な使いという立場であったが、それが、ルブルクの立場をたびたび難しくした。というのも、モンゴルにおいて、正式な使節は、カンに対して自由に発言することができたが、私的な使いは、カンが質問したことに対してしか発言ができなかったからである。それでも、なんとか無事、使いを果たしたルブルクは、1255年8月半ばにトリポリに着いた。

 

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ルブルクが訪れた頃のモンゴル(『中央アジア・蒙古旅行記』(講談社学術文庫)から引用、追記)

 

 ルブルクの記述によれば、グユクのあとに即位したモンケ・カンの返書には、イルチカダイの使節であるダヴィドが偽使節呼ばわりされており、グユクの皇后ガイミシは「狗より劣れるかの邪悪の女」と書かれていた。ダヴィドが本当に偽物だったのか、イルチカダイがカンの許可を得ず派遣した使節だったのか、イルチカダイがモンケがカンに即位するのに反対していたのか、はっきりしたことはわかっていない。ただ、オゴデイの跡継ぎとして、グユクとモンケが争ったこと、グユク亡き後、バトゥに支持されたモンケがカンになったのは確かである。ルブルクは、モンケがカンになったあとのモンゴルに足を踏み入れたのであった。

 

 次回はいよいよ、ルブルクが書き残したモンゴル内のネストリウス派について見ていきたい。

 

(以上、☆『中央アジア・蒙古旅行記』カルピニ/ルブルク 護雅夫訳、講談社学術文庫、2016年、☆「カルピニとルブルク」『山の文学全集Ⅺ 中央アジア探検史』、深田久弥著、朝日新聞社、1974年参照)